書物を「丸呑み」する、ということ

家で捜し物をして古い書類の山を漁っていたら、こういうものが出てきました。

某岡田暁生氏が独特の癖のある字でノートに訳したダールハウス「19世紀の音楽」3章(ヴェルディやワーグナーのところ)と5章(世紀末のところ)。それから、伊東信宏氏と分担して同じダールハウス「分析と価値判断」を訳したもの。

前にも書いた気がしますが、大学院へ入ったときに分厚い大学ノートにびっしり文字の詰まった原物を渡されて、コピーして読んどけ、と言われたのでした。お前もこうやって勉強するのだぞ、と。

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某岡田氏はこういうのを「写経」と呼んでいましたが、外国語文献をちゃんと読まなければならない人文系の分野だったら、誰しもこういう風に猛烈に勉強する時期があるんじゃないでしょうか。途中をスキップするわけにいかず、隅から隅まで「丸呑み」するわけですね。

そういう基礎体力みたいなのがベースにあるから踏ん張りが効くのであって、何も「天才」が最初から楽々とかっちょいいことをやれるわけではない。

『音楽学』の新しい号で、ポピュラー音楽学会の皆様の本が斉藤桂さんから厳しく評されておりましたが、「音楽を通して」考える、とか、固有名を出してその著者と向き合う、というときには、そのような隅から隅まで「丸呑み」する経験の有無が問われているような気がします。

(吉田寛先生も修士論文ではいちおうハンスリックを「丸呑み」する修行を経験したわけで、あとは、そうした読書なり翻訳術なりを「技」や「道」として表に出すか否かの違いだけ。ポピュラー音楽学会のヒーロー細川周平さんも、最初の音楽記号論の本とか、正直何言ってるのかよくわからないところはあるけれども、「丸呑み」感がありますよね。)

こういうのって、ツケを払うみたいに、あとで効いてくるんだと思います。

(と、たまには典型的な年寄りの小言モードで書いてみた。)

作曲は鳥のごとく

作曲は鳥のごとく

作曲家だったら、五線譜を書くことを通して先人の音楽を「丸呑み」するのが修行なんでしょうね。吉松さんは、実際に独学なので、これを独学固有のやり方という風に書いていますが、学校に通ったとしても、先生に言われた課題だけやってるなんていうのはバカなので、個人がやることの構えや質は、それほど大きく違わないんじゃないでしょうか。要は、制度より「人」だと思う。

ただし、こういう風に「丸呑み」する勢いでひたすら「書く」というのが、輸入した文物を咀嚼することに命を懸けるニッポンの学者に特有の風俗なのか、そうじゃないのか、というところは、私にはまだよくわかりません。

凄腕プログラマさんにも、寝食を忘れてコードを書きまくる時期というのがあるようですし、チャールズ・ローゼンは、プロのピアニストになるためには、若い頃にとにかくありとあらゆるレパートリー(譜面)を全部ひととおり弾いてみる経験が必須だろう、と、もの凄いことを書いていますから、何の分野でも、あることなのかもしれません。

ピアノ・ノート

ピアノ・ノート

マクルーハンよろしく、活字や書き文字の「銀河系」の外に多様なメディアがあるじゃないか、というのは確かにそうなんですが、そこが無重力のユートピアで、楽ができる、ということではないはずなんですよね。

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110213/p1

ヒトが無重力空間へ出ようとするとエラい苦労する、というのが、鉄腕アトムな時代のアポロ計画の教訓だったような気がしますし。

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(逆に、どうやら1960年代後半以後に生まれた人のなかには、自分の「好み」のものしか飲みこむことができなくて、無理に「嫌」なものを飲みこもうとすると吐いちゃう、身体が受けつけない、という風に育ったヒトもいるようで、それは、率直に言って一種の贅沢病で、半分うらやましくて、半分かわいそうですが、それはもう、こういうタイプの仕事に向かない体質、と言わざるを得ないのではないだろうか。)