日本学生支援機構(旧・日本育英会)問題:貸し付けを奨学金と呼ぶのはNGだけど、将来先生になったら借金はチャラ、の部分はOKだ、の理解でよろしいか?

[追記:しかしアレだよね、

https://twitter.com/smasuda/status/318376048427405314

自分が関わっているあっちこっちの「職場」に、こういう風にプー垂れて他人を不快にさせる自称ニューフェースがいないのは、ホンマ有難いことだと思うわ。借金苦で死ぬ人がいる、そんな世の中でいいのか、という話はそういう話として声を大にして叫んだらよろしい。大阪市大は、伝統ある関西極左学生運動の牙城なのですから、どんどんやりなはれ。(思えば立命館もそうだよね。往年の新左翼の城が今は団塊チルドレン世代を収容してカルチュラル・スタディーズの拠点になる、という史的展開があるわけだ。革命するぞ、オルグしちゃうぞ!)でも、それが誰のものか、とか、もうエエやん、という話をここではしとるわけや。金は天下の回りもの。回るものは泣いても笑っても回っていくんやから、だったら、どう回すのがいいのかなあ、ということです。]

日本育英会の「奨学金」というのは、私も現在返済中ですが、これが教職(常勤)に就いたらチャラになる条件付きの借金だ、というのは最初に借りたときからわかってたことなので、何が騒ぎになっているのか謎だったのですけれど、

1984年に「第二種」として有利子でその分審査がユルユルの貸し付けが新設されて、いつのまにか学生を食い物にする悪徳金融みたいになっていることが批判を浴びているんですね。

バブル期に調子こいて制度をイジっておかしくなった典型、という気がします。

でも、これだけだと「返すあてのない借金なんてするもんじゃない」という当たり前の話で終わってしまうので、ここでは、1943年の育英会創設時からあると思しき「第一種」の「先生になったら借金はチャラ」部分について。

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私のこの特例に「昭和」の臭いを感じます。

今の感覚だと、(特に大学など)常勤職をゲットするだけでも狭き門で超ラッキーなのに、さらに借金棒引きのオマケ付きかよ、と「特権階級」への憎悪を募らせる火だねになりそうですが、

物資がなく「人間力」を底上げしないと戦争が維持できなくなっていた時代にできた制度ですし、戦後の景気が右肩上がりの時代には、教師(公務員)なんて面倒で儲からない職業の典型ですから、教師をやってくれる人を厚遇する、というか、成績優秀な苦学生が教員になることを歓迎するのは、この制度が「奨学」と自称できる核心部分だったんだろうなあ、という気がします。

内田樹風に言えば「先生はエライ」の精神ですね。

そして、卒業後一般の仕事に就いて、もらった借金を返すのは、「このお金が次世代の優秀な教育者の育成に少しでも役立つのであれば」という風に納得することができた(できる)と思います。

(月割りにしたら、ワタクシでも払えているくらいだし、それほど法外な額というわけではない。)

他の戦時中にできた制度(食管制度とか)と同じく、目前の問題に対処すべく「とりあえず」ではじめたものが、いつしか何十年も続いて既得権化する、という、ありがちな経緯をたどってはいるけれど、ここのところは、「先生」を育てるサイクルを回していく仕組みとして、たぶん、それほど悪い設計ではないような気がします。

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ここから得られる教訓があるとしたら、

「キレイゴト(奨学金)言うのはやめろ、貸し付け/借金なんだったら、ぶっちゃけてそう言いやがれ、コノヤロウ」

というdisではなくて、

よかれと思って何かを始めるときこそ、性善説ではダメなんで、将来「これを金融業に作り替えて一儲けしよう」みたいなワルモノに悪用されない仕掛けを組み込んでおかなきゃいけないんだなあ、ということだと思います。

そしてまた、あとで悪用しようと思っていたり、自分の後ろ暗いところを隠そうと思っている人に限って、言葉の上では「善人」ぶって既得権を批判するものである、というのも広く知られた経験則なので、いい人のフリして日本学生支援機構を一方的に批判する人に制度の手直しを任せるのは、たぶん、やめといたほうがいいような気がします。

手直しするなら、落ち着いて、長い目でみて、のんびりやるのがいいんだと思う。

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それからもうひとつ。

この制度が本質的には「貸し付け」であって、必ずしも万人に平等に開かれた「奨学金」ではない、そうではなくて、この制度が「奨学」するのは教員志望者のみである、ということをわかりにくくする原因のひとつが、「学内選抜」じゃないかと思うんですけど、そこのところは、この制度を批判する先輩教員の皆様の間で、ちゃんと、問題意識が共有されているのでしょうか?

つまり、学内選抜を勝ち抜いて学校の推薦をもらえた人だけが「奨学金」(という名の貸し付け)の権利をゲットする、みたいな競争原理を入れてしまうと、今の学生さんは、とにかくひとつでも多く資格や肩書きが欲しいと思っちゃうので、後先考えずにエントリーしちゃうと思うんですよ。

そのうち、先生や学生の間で、「奨学金をゲットしている子=優秀な子」、みたいな理解が生まれちゃったりして、だったらオレもワタシもエントリーしなきゃ、みたいな。

一般論として考えても、「奨学制度」というのは、なんでもセンセーショナルな騒ぎに仕立てて、話を大きくしたほうがいいんだ、という、20世紀的なメディア観、イベント観、言説観では処理しきれない案件のような気がします。

「奨学」を金銭の形で行う、というのは、お金持ちなブルジョワ様に対しましてはかえって無礼・失礼・不名誉になってしまいますし(そういう人たちのなかから出てきた「成績優秀者」は、金をもらう側ではなく、苦学生を奨学する側にならなきゃおかしい)、本来が、ビンボー人を掬い上げるセーフティネット、いわゆる「文化資本」の階級としての固定化を予防する補助システムに過ぎないはずです。

日々の雑務の憂さ晴らしとして、安心安全に批判できる格好の「標的」が見つかった、これは先生と生徒が心をひとつに一揆して取り組むことのできる「問題」だ、祭りだワッショイ、みたいに思わないほうがいいはずなんだけどなあ、と、他人様のつぶやきをぼんやり眺めて思う桜の季節。