のしあがれニッポン

これは一定の支持を集めるスローガンかも。

ただし、たとえば、

ニッポンが合州国に宣戦布告して4年後に無条件降伏ののち占領されて、主権回復後も領土内に米軍基地がある属国状態が続いて、その宗主国である合州国が、敵対する社会主義陣営の自壊により世界ナンバーワンの地位を不動のものにした、

という事態は「ニッポンがのしあがった」とは言わない。ニッポンが「のされて」、ニッポンを「のした」相手が順当に勝ち上がった、と見るのが適切だと思われる。

(つまり、自分の師匠が出世したり、自分が友好関係を結んだ(とこちらが考えている)相手が出世することは、(まだ)自分自身の「のしあがり」と呼びうる状態ではない。)

仮に戦後のニッポンに「のしあがり」と呼びうる実績があるとしたら、それは、米国との強力な同盟関係を背景にして経済の急速な復興ののちに著しい成長を遂げて、自由主義経済体制の一翼を担うに至ったことがそれだと思われる。

つまり、「のしあがり」とは、どのような手段を用いたのかはひとまず脇に置いて、自らの実績・業績がライヴァルを上回ったり、ライヴァルと互角にわたりあう状態に達することを指す。

そして、その心意気やよし、と私は思う。

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ただし、「のしあがり」が「自力」で勝ち上がることである以上、その宣言は、他者の言葉の引用ではなく、自らの言葉で行うほうが説得的ではあろうと思う。

「のしあがるぞ」と宣言する他者の言葉の引用をもって自らの宣言に代える、ということをやってしまうと、それを見た者は、おそらく、その言葉を引用した側を応援するより以前に、そこで引用された言葉を発した側に優先的にエールを送るであろうことが予想されるからである。

「のしあがり」を実行する前の宣言の段階で、既に二番手に転落! 晴れやかな春のスタートダッシュにあるまじき不吉な兆候である。

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「本当はのしあがるつもりなんてないもんね、ウソぴょーん」と途中でケツを割ったときに言質を取られないための予防線でないことを祈る。

「のしあがり」を実行する前に宣言すると、当然ながら、それを快しとしない勢力の警戒・抵抗は一層強まると想像される。それを見越してなお、敢えて宣言するというのは、勝ちを読み切る相当な自信のあらわれであろうから、刮目して待てばよいだけなのかもしれないが。

またあるいは、「他人の言葉の引用に鼓舞される程度の決意では所詮だめなんだよ」ということを自らの行いをもって後進に示す反面教師を意図しているとしたら、犠牲的行為が称讃されるべきなのかもしれないが。

(成功する可能性が薄く、失敗したときのための備えだけが万全、というのは、ひょっとすると、ひとつの才能なのかもね。絶対に自分が前線に出ることなく、後衛として生き残るための動物的本能、みたいな。

だったら、最初から「後ろにいます」と宣言しても同じことのような気はするが、そうではなく、おそらくこれは、「自分ではない誰か」を確実に前に出させることで、確実に後衛のポジションを確保する厳重な備えなのかもしれない。

群のなかで生き残るには、ほんと、色々考えなきゃいけないんですね。御苦労なことです。なんだか、旧陸軍内務斑の閉ざされた疑心暗鬼の空間を生き延びる術を教えられてるような気がしております。ご自愛申し上げます。

でも、そこが願いなんだったら、もうちょっとシンプルな言葉の実装でほぼ同等が実現できる、というか、みんな、そうしてるんじゃないかと思う。作戦がマニアックにややこしすぎる。平和を愛し、うどんを愛する中年大学教員(ぼけぼけ〜♪)でいいじゃん。十分しあわせそうだし。黙っていても、そこそこの地位にはなるっしょ。他人にちょっかいだす必要ないと思う。

拡散・流出して、どう収拾したものか、わからなくなりつつあるポピュラー音楽の未来の事後処理は、手に余れば誰かに丸投げしちゃえばいいのだし、世の中というのは、そういう風に、適宜、人事刷新しながら回っていくんでしょ、たぶん。

大学生活の美しい思い出のアルバムに泥を塗る不届き者程度のことは、ほっとけばよろしい。言いたい奴には言わせとけ(……と私が言うのも妙な話だが)。)