悪しき文学趣味

「私」の心の中の暗く湿った部分が世界の大状況とシンクロしている。こういう論の立て方は悪しき文学趣味だと思う。

最初のリンク先は、個人(の行動や内面)に還元できない集団の振る舞いを仮説的に、それ自体として取り扱おうとするところに社会学(社会科学)がある、ということを音楽社会学の人として、いったいどう考えているのだろうか。

(「私」の内面や精神の探究の底を抜いた返す刀で、社会科学における「私」の欠如を告発して、セカイを大混乱に陥れる、というのは物語として陶然とするヴィジョンかもしれないけれど、実際に出来ることといえば、

(1) 社会学者のうち、クソマジメで「私」の問題まで手が回ってなさそうな人のところへ行って、「今の世の中の若者の自我(オレ)の姿はそんなもんじゃないっすよ」と囁いてみせる。

(2) そして帰りがけに、今度は自分の専門領域以外のことまで手が回ってなさそうな人文学者のところへ行って、「センセイ、社会学だと、それはこういう風に処理するみたいですよ、ペラペラペラペラ」(と社会科学用語の羅列でひとしきりおしゃべりをする)。

というのの組み合わせですから、十年もすればメッキは剥げる。(1)と(2)を丹念に突き合わされたらコウモリ大作戦なのがわかるし、だいいち、まともな社会学者は文学に通じているし、まともな人文学者は社会科学と自分たちのやっていることの関係を知っている。

そういう「まともな学者」に出会ったときの煙幕として、「あなたのような文化資本の高い人だけが学者になれると思ってもらっちゃあ困ります」という飛び道具を懐に準備しているわけだが、そんな言い訳は若輩の未熟者と見過ごしてもらえる間しか通用しない。中年(以上)になったらオシマイだ。)

2つ目のリンク先は、(1) 「学校教育に創作は必要か」という風に、あるべきカリキュラムの問題を論じているかのようでいながら、実は、(2) 「指導要領と現場の授業がかけはなれているから、指導要領のほうを現場の授業(教師の声)にあわせるべきだ」という学校行政と現場の関係のことしか念頭になく、しかも最後は、(3) 「創作指導なんてやったら、ますます子供から音楽(音楽教師)が嫌われる」という風に、教師が子供といかに向き合うか、の話になる。

複雑な問題を理性的に議論・解決可能な小さな問題に分割する、という発想の正反対のやり方で思考が転戦してしまっている。

そしてこのような「転戦」を駆動しているのが、「学校の音楽教師をするのは本当に辛かったし、だから私は辞めてしまった」という私的体験なのは、比較的見やすい。

話の順序は、大状況を語ることが小状況へつながる、という順序だが、語りを駆動する世界観は、上の最初のリンク先と同じである。

こんな風に、安易につなげたり、シンクロしたり、連動させても事態を好転させない事柄を、ひとつながりの文字列(文)に入れ込んでしまうところに、小論文入試だの、とにかく出そう博士論文だの、という作文至上主義な文学部の在り方の一番よくないところが現れていると私は思う。

「私の問題」と向き合いたいのであれば、小谷野敦が提唱するように、下手でもいいから、徹底的に事実にへばりついた私小説を書いてみる。あるいは、コンヴィチュニーがやっているみたいに、その時その場のその人物の感情・振る舞いがどのようであるか、徹底的に煮詰めて舞台上で開放する。

そうやって、一度、私と社会(セカイ)を分けたほうがいい。

文学部は、ひととおり中学生か高校生で「文学」をやり終えてから入ってきて欲しいぞ。

そして一生そういう「文学」をやっていたいなら、心のジメジメや創作の是非を「論じる」人じゃなく、それを世間に向けて直接放出・出力する創作者になったほうがいい。

私小説のすすめ (平凡社新書)

私小説のすすめ (平凡社新書)