増進会とゲーセン

分厚い本を読み進めて部屋を片づけるシリーズです。

その1:

通信教育の研究。松下幸之助が戦前戦中の新仏教ラジオ講座を聴いていたのではないか、というPHPの研究があるらしいと聞きつけて、そこからこの本にたどりついたのですが、内容がむちゃくちゃ面白くて、佐藤卓己先生は、筋の良い鉱脈を見つける研究テーマ選びの天才なんだと、改めて思いました。

ラーニング・アロン 通信教育のメディア学

ラーニング・アロン 通信教育のメディア学

ドイツの社会民主党プロパガンダ(漫画)研究に対応する日本の戦前研究ということで大衆雑誌研究「『キング』の時代」がまずあって、そこから陸軍教育武官・鈴木庫三の評伝に移り、通信教育というテーマは、この人とのつながりでたどりついたようです。そしてそこから、教育における通信と放送の融合、というまるでダジャレのような話が本当になって「テレビ的教養」ができて、放送研究から玉音放送神話の再検討といった話が出てきて、押しも押されぬ「メディア論」の人になる。面白い話を飛び石のようにピョンピョン渡っているうちに、大きな構図が見えてくる感じがします。

早稲田・法政・中央といったのちの私大が専門学校(その講義録頒布が日本の通信教育のはじまりらしい)として設立された明治初期における帝国大学との関係とか、戦後、お茶の水女子や日本女子大が家政学部を作ろうとしたときに、家政学を学問として認めてもらうために学会を作った話(音楽学も他人事ではない!)とか、気になるトピックが色々出てくるのですが、

なによりも「恐い」気がしたのは、「あとがき」にあるのですけれど、この共同研究の著者たち(京大系)は、研究会でそれぞれの経験談を出し合ってみると、ほとんどが「Z会」やってたのだそうです。

やっぱり東大・京大へ入るには「Z会」なんだ、ということですが、本書の中で、受験の大衆化のなかで躍進した旺文社の「蛍雪時代」とラジオ受験講座、1980年代以後の楽しく学べる進研ゼミとの対比で、「Z会」は、長らくマスメディアでの宣伝を打つことのない、一種の「秘教的」な性格があった、とされています。

わたくしの世代は、「Z会」が大々的に「表」に出てくる直前なので、その感じはなんとなくわかります。良い大学へ行きたい同級生が結構やっていて、数学の問題の話とか教室でやってるんだけれど、入会してない人間は遠巻きにしてる感じがあったような記憶があります。

昭和後期の受験社会におけるフリーメーソンですね。

何食わぬ顔をして普通につきあっているのだけれども、裏でちゃっかり、これがいいんだ、みたいな情報をゲットした人間が東大・京大へ行く、時代の「顕教」であるところの大衆社会とか一億総中流時代という掛け声に惑わされずに、祭壇をお参りした者が「栄光」をつかむわけですな。

こういうのは、学力との相関関係を検証するだけではしかたのない、「信仰」の側面を含みますもんね。

そら、東大生・京大生が、ちょっとやな奴、になるはずですわ(笑)。

周囲の目を半分意識しつつ、何食わぬ顔して出し抜く感じが、「Z会」というのを代入すると、ピタリと像を結ぶような気がします。

大学に入っちゃうと、そのあと、ほぼ一生、そういう方々はご同類とだけつきあっても十分に生きていけるように世の中ができあがっているわけですが、この「臭い」は、そうじゃない人間からすると、割合はっきり認知できる、ような気がします。

(日本のブルデューを目指す教育社会学者が、「Z会」的な「ハビトゥス」を身につけた人たちの就職・社会でのキャリア形成のやり方とか、結婚・伴侶の選び方とかを包括的に調査してみると、色々見えてくることがあるんじゃないでしょうかっ! 「Z会」研究で、目指せ、21世紀の竹内洋!)

日本の賢い人文社会科学における「Z会」は、戦後日本の作曲家教育における芸大和声・芸大対位法に相当する、とか、言えそうな気がしております(笑)。

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その2:

ゲーム化する世界: コンピュータゲームの記号論 (叢書セミオトポス)

ゲーム化する世界: コンピュータゲームの記号論 (叢書セミオトポス)

私は偉い先生方に有難い感じにプレゼンされると、フラフラと操られてしまうミーハー(「Z会」な方々に陰であざ笑われてしかるべきような)ですから、今はゲームが来てるんだ、といわれたら、ただちにギブソン三部作まで買い込んじゃう「良いカモ」だと自認しております! いいんです、楽しければ〜♪

視覚ワールドの知覚

視覚ワールドの知覚

で、記号学会の山口昌男伝来の日本のしなやかな知性たちが、知のフロンティアであるところのコンピュータゲームを鮮やかにさばく本なわけですが、

まっさらの清潔な白いシーツのような処女地への歩みをうっとりと、ワクワクドキドキしながら読ませていただき、とても興味深かったのですが、ひとつだけ、うっすらと、でもひょっとしたらこれからどんどん大きく広がってしまうかもしれない気のするシミを見つけたような気になってしまいました。

コンピュータゲームは、出発点がハッカー文化と同根だそうですし、折り紙付きに筋の良いサラブレッドなカルチャーだと思うのですけれど、冒頭の三遊亭あほまろさんのお話には、日本のパイオニアな方々、「スタートレック」でコンピュータゲームに開眼したような方々の間では、これを「パチンコやゲームセンター」と一緒にされては困る、という認識があったという発言がありました。

逆にいうと、鮮やかに知的なアプローチが可能な「マイコン→ファミコン」の系譜とは別に、「パチンコ→ゲーセン」という、もうひとつのコンピュータゲームの系譜があるのかもしれない、みたいな話だと思うのですが、どうなのでしょう。

なんとなく、ブルジョワ教養主義的な放送(ラジオ→テレビ)と、見世物的な悪場所の映画・レコード(この先にVシネがあるのだろうか)の対比と重なるような気がして、オペラで言えば、ワーグナー(ラディカルなのだけれども作者による強力な一元管理で「作品」として完璧にパッケージングされている)とヴェルディ(劇場システムのなかに編み込まれたパフォーマンスが郷土芸能的な「体臭」にまみれている)の違いと重なってくるのかもしれない、と思うのですが……。

ファミコンと受験・進学は(頭いい人だったら十分に)両立するけど、ゲーセン(不良の溜まり場でおまわりさんが巡回するイメージがある)と受験・進学は、昭和の終わりの学校的な世界において、相互排他的ですよね、たぶん。

ワーグナーの音楽劇で培われた様々な判断基準は、ロッシーニやマイヤベーアやヴェルディやプッチーニには(そして少なからぬ部分でグルックやモーツァルトやウェーバーにも)上手くあてはまらなくて、それでこうしたイタリア・フランスのオペラの研究が後回しにされて冷や飯を食った経緯があるわけですが、ゲーセンの入口に置いてある和太鼓とかは、ビデオゲームのインターフェースとして、きれいに解析できるのだろうか。

そしてこれは、ゲーム研究が「書斎の科学」として閉じうるか、ということにつながっていったりするかもしれない予感がしたりもするのですが……。