「名」と「実」のこと - virtual reality、virtuoso、「読み替え」演出

virtual reality を「仮想現実」と訳すのは誤解を招く、というのは、その方面(どの方面かよくわかりませんが)でしばしば指摘されることみたい。

「virtual 事実上」は「nominal 名目上」と対になる言葉で、「実 virtue」(あるいは「徳」)を取るか「名 nomine/name」を取るか、という対立が想定されているみたいですね。virtual reality は、「リアルと呼ぶ/名指すわけにはいかないけれど「事実上」もうほとんどリアルじゃん」というニュアンスになるのでしょうか。

      • -

で、virtue から派生しているという意味では、19世紀の目覚ましく華やかな存在だった virtuoso の近くにある言葉になるのでしょうか。virtuoso の説明をするときに、原義は「人徳者」だ、と今までずっと説明してきたのですが、「実」を背負っているわけだから、「ひとかどの人物」みたいな感じなのかもしれませんね。

何気ない台詞でもカリスマ性のある役者が舞台で言うと胸に響くみたいに、通俗的なオペラ・パラフレーズ(名場面集)でも、「ひとかどの人物(virtuoso)」の手にかかれば、実に有難いパフォーマンスになる。

(そして一方には、そんなのはマヤカシである、質が低い作品を有り難がるとは嘆かわしい、と眉をひそめる人たちもいる。virtual を「仮想的」と訳してしまうと、あまりにも、こっちのアンチな側に加担しすぎていることになるのでしょう。ちょうど、virtuoso の語が、長らく、「もったいぶって技巧をひけらかす輩」のニュアンスで悪しき19世紀の代表と見なされていたように。←ベートーヴェンのソナタを大切にするタイプのピアノの「読み書き」をたしなむブルジョワ文化は、アマチュアを寄せつけない virtuoso にそのような不信の目を向ける傾向があったとされる。http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20130614/p1

      • -

でも、virtue はやっぱり厄介ですね。(と思ってしまうのは、悪しき20世紀の唯名論的な言語遊戯に毒されすぎた感慨なのだろうか……。)

virtue に懸けるしかない俗世に生きていると、どこかに「名目」の旗をちゃんと守る人がいてほしい、そういう役割分担でいこうじゃないか、と思ってしまうのですが、

どうやらこういう意見の失効を宣言したのが正しい左翼の文化研究らしいので、来週はこれでいこう。

「カルスタ」さんは、おそらく、学統としては左翼的に、名目にとらわれることなく文化の virtual =「事実上」の力を探り当てる議論のはずだと思うのだけれど、諸力が折り重なる場を分析・記述したアウトプットは、どうしても様々な「概念/名前」が散乱することになりがちで、nominal な言語遊戯と見間違えてしまいそうになるので、どこがどうなっているのか、一度ちゃんと勉強しておきたい。

(「カルスタ」が評価する数少ない大陸系のテクストであるらしいフーコーの権力論からして、nominal なのか virtual なのか、にわかに見極めがたいですし、わたくしに近しい現象で言えば、オペラのいわゆる「読み替え」演出は辻褄合わせの nominal な連想ゲームなのか、ドラマを「今」の「わたしたち」の手に奪還する virtual な文化闘争なのか、という議論につなげることができるかもしれません。←もちろんこの物言いには、nominal な辻褄合わせに汲々とする「読み替え」はすぐ飽きるけど、なかには、すげえ、神演出!と膝を乗り出すような公演、語の正当な意味における virtual reality が出現する「読み替え」もあるんじゃないか、という風に批評を行使する意志が働いています。)

      • -

で、virtual reality がそういう意味合いだとしたら、virtual fiction という言い方もあり得るのでしょうか? 事実上の虚構=ウソみたいな実話(……かと思いきや、Google ではあまりそういう用例はヒットしないが。)