経済活動に否定表現はあるか?

アファナシエフの「展覧会の絵」、あれは何だったのか、聴いてから一週間宿題になっていて、オペラの「読み替え演出」ならぬピアノの「読み替え演奏」ということでいいんじゃないかと思いついた。

そしてたぶん、コンヴィチュニーの一連の仕事や、ピアノの前でワイン片手にうじゃうじゃしゃべるアファナシエフがいける人は、HJリムの、少女漫画を読みふけるうちに、憧れの男性キャラが脳内で生き生きと勝手に動き出す二次制作(←それはおそらくラ・マンチャの「ドン・キホーテ」様以来の由緒正しい耽読の作法と申せましょう)みたいなベートーヴェン(YouTubeでいくつか観ただけだけれど)もいけるのかなあ、と。

コンサートライフに「否定表現」は似合わない?!

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東浩紀がそう指摘したのを読んだだけですが、フロイトは夢(=無意識)に否定表現がない、と言っていたのだそうで、その話を読んだときに、そういえば、レヴィ=ストロース入門のような本で、「野生の思考」は論理ではなくメタファーの連鎖であり、そこには否定表現がない、という文言があったように記憶します。

「否定表現がない」というのは、そのメカニズムが形式論理ではないことを端的に示す指標であることになっているらしく、20世紀は、形式論理の純化に邁進する人がいる一方で、その補集合のようにして、われらが「生活世界」のあちらこちらに、否定表現をもたないないがゆえに形式論理ではないものが「発見」されて、擁護された時代だったのかもしれませんね。

そして考えてみれば、経済活動にも「否定表現はない」かもしれない。

「A社はB社と取引をしない」という契約書は、ふつう、わざわざ作らない。(今は疎遠でも、そのうち風向きが変わるかもしれないし。)

「○○の廃止」が告知されたりすることはあるけれど、そこで何かが消滅したと考えるのは未熟者で、そういうところにこそ新たな「ビジネス・チャンス」が転がっていると発想しなけりゃ生き延びることはできないものなのかもしれない。

経済活動に「否定表現がない」(奴らは絶対に懲りない)からこそ、自由経済のJ. S. ミルアダム・スミス大先生[当初恥ずかしい勘違いをしておりました]が、経済論のあとで道徳論を言い出した、とか、そういう話じゃなかったかしら。

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私は、割合頻繁に「今後そちら様とは○○しません」と当人に面と向かって言って、ほんとうにそうするんですけどね。そして近江商人の流れを汲むとされる大阪船場の商法は、実はそのあたりの信義が硬かった、という話もあるみたい。

(浄瑠璃の心中ものは、死んでいく二人にべったりと共感の情愛が貼り付いてはいるけれど、だからといって、世間の掟はびくともしないし、借金は、びた一文まかりません。だから、不倫や借金で彼らは死ぬ。俗世の彼岸の阿弥陀様や観音様だけが、久遠の光で照らしてくださる、そういう話なわけだ。オルフェウスとエウリディーチェを「超法規的措置」で救ってくれるアモールやアポロは、大阪にはおりまへん。)

京都と神戸(と東京)[の上のほうの人たち]は、成り行きでそういう風になったらなったでそのまま行く文化圏。大阪と近江は、勘定(と感情?)の辻褄をキチキチ合わせていく文化圏。関西は、そういうのが、神戸-大阪-京都-近江、とまだら状に混じっているのかも。

(橋下くんは、結局東京へ色気出して、あっちこっちのしがらみでズブズブやん、とバレてきたから人気が落ちた。)

先週のいずみホール「シモン・ボッカネグラ」は、大阪的か、それとも、主要スタッフから考えると、東京的か?

(いずみホールも、あれだけの規模のオペラをやるときは、しっかりしたプロデューサーを立てるべきだ。)

週末二日公演の関西歌劇団「仮面舞踏会」は、舞台の真ん中に立ってる人たちが意外にねばり強く大阪的だったところが、案外エエやん、だったかもしれない。

そしてわたくしは、びわ湖ホールの、近江っぽい足腰の強さが、最近じわじわ効いているような気がしております。