同族化(gentlify)問題:芸術はどうしてウザイのか?

[最後に短く加筆、真ん中あたりにも本の参照を加筆。最後の部分をやや拡張、「伊藤博文のドイツ/ウィーン」の話も入れた。]

少し前から、「芸術」の周辺に、口うるさい世話焼きの保護者っぽい人が発生するのは何故なのか(ステージママ/パパとか、アートマネジメントとかが、ある条件下で臨界点を越えて暴走する場合を想起されよ)、ということを考えていて(←日々色々考えるのです(笑)、おそらく保護者やマネージャーが時として暴走するのは、アートのすぐ傍にいるのに自分がアートをやっているわけではない「もどかしさ」ゆえで、ここにも善意の怖さの一例がある)、

そんなときに、偶然知ったジェントリフィケーションという単語にピンと来た。

ジェントリフィケーション(英語: Gentrification)とは、都市において比較的貧困な層が多く住む停滞した地域(インナーシティなど都心付近の住宅地区)に、比較的豊かな人々が流入する人口移動現象。これにより、貧困地域の家賃の相場が上がり、それまで暮らしていた人々が暮らせなくなったり、それまでの地域特性が失われたりすることがある。

ジェントリフィケーション - Wikipedia

さしあたり、西成に大フィル会館があったり、京橋(大阪城公園と城東に隣接)のビジネスパークにいずみホールがあるのは、この意味での「アートとジェントリフィケーション」に格好のテーマだと思いますが(世間が市長の囲み取材エンタテインメントに一喜一憂する間に、グランフロントとかハルカスとか、大阪の再開発は総仕上げ段階な感じです)、でも、ジェントリフィケーションが「悪」だと決めつけるセンセーショナリズムは嫌だし、もうちょっと話を広げるための下ごしらえをしておきたい。

1. gentle ってどういう意味?

まず、ジェントリフィケーションという長たらしいカタカナ語を安易に使うのはヤバい感じがするので語源のチェック。

gentleはラテン語の"gentils"に由来する。"gentils"はもともと「同じゲンス(氏族:Gens)に属する」という意味であるが、そこから転じて特に高貴な血筋や名門一族といった意味合いで使われる。

ジェントルマン - Wikipedia

gentle は、gentleman という言葉が出来たりするのでノルマン系かと思っていたら、ラテン語系なんですね。gens (氏族)を同じくするのが gentle なのだとしたら、優しく親切(gentle)は、同族の親愛の情と考えるのがいいのでしょうか。

ウィキペディアは、上の引用に続けて、

つまり"gentleman"とは本来「高貴な人物」といった意味合いである。

と言い切ってしまうのだけれど、「高貴」の語は特定のニュアンスが強く、語感が限定されてしまいそうなので、「gentleman = 同族意識で結ばれている者」という理解に踏みとどまっておくほうがいいかもしれません。(「貴族」や「ブルジョワ」が血筋や家柄を重んじる、あの感覚が gentleman なんですね。)

そして目下の懸案である gentlify は、なかなか日本語に移し難い言葉かとは思いますが、「同族化」としておくのがいいんじゃないか。

英国では、領地を持った貴族、ジェントリから gentleman の意味が拡大して、16世紀中頃には国教会聖職者、法律家、高級官僚、士官、のちには産業革命の成金さん(貿易商や銀行家等々)をとりこむようになっていくようですから、gentleman 概念は、仲間を増やしていく「同族化 gentlify」の動きと切り離せなさそうです。

都市論で gentlification が言われるのも、おそらくそういう語感を踏まえていると思うので、単に「優しく穏やか、安心安全なまちづくり」ということではなく、氏族が支配域を拡大するイメージで「同族化」と呼んでいいんじゃなかろうか、と思いました。

洒落者たちのイギリス史 (平凡社ライブラリー)

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「アートとジェントリフィケーション」というお話は、都市の贅沢=消費の欲動が英国を繁栄させた。ジェントリが貴族と同等のファッションを求め、シティズンがジェントルマンに引けを取らないファッションを求めて繊維産業を推し進めた、という川北稔先生がおそらくご自身の故郷・大阪観(子供の頃、両親に連れられてミナミでOSKをご覧になった思い出をお持ちだとか)と重ねるように提唱されるイケイケな産業革命論のさらに先、贅沢な消費のてっぺんの冠の位置にアートを置く話(これだと『聴衆の誕生』的な80年代消費文化論、福島のプラザホテル(今はもうない)の隣りのおしゃれな音楽専用ホールの話になる)とはちょっと風向きが違うのだろうと思うのです。ある階層が(virtualかもしれないけれども)親密圏を確保しようとすることでその地域に葛藤・波乱を巻き起こす「善良さの悪意」の話のはずなので。
イギリス近代史講義 (講談社現代新書)

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2. 芸術の氏族・部族的繁殖力は確かにウザイ

そうして、ここまで意味をほぐしてしまうと、最初に書いた、芸術の「保護者」な方々のウザイ感じと、話をつなげる道筋が見えてくる。

ステージパパさんママさんは、子供を盛り立てるために、リアルに親類縁者、ご近所のパパさん、ママさんを巻き込もうと頑張るものですし、

いわゆるアートマネジメントでは、メトロポリスでしか成り立たないようなマスに投げ網を打つパブリシティとは別種の、既存のコミュニティとのつながりを各個撃破的にひとつずつ構築していく手法が模索されていたりするようです。

アートは、「氏族・部族」(gens)を盛り立てる形で根を広げるのが基本みたいなんですよね。

こういう種類のアートの「繁殖力」を都市再開発に利用しようと考える人たちもいるし、

テレビという「どこでもない場所」からやってきた別の種族なのかもしれない橋下くんみたいに、マスメディアの網に引っかからない「氏族・部族」をひどく目障りに感じる人たちもいる。

(一方、前市長の平松さん(磯村尚徳の「ニュースセンター9時」(1974〜)でテレビの報道が変わった頃のMBSのニュースキャスター)は、同じテレビの人といっても「どこでもない場所」というより「テレビ的教養」が身に付いた感じで、しばしばジェントルマンだ、と形容される。)

場所感の喪失〈上〉電子メディアが社会的行動に及ぼす影響

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3. ウザイからこそ gentle に

心配しなくても、アートに関わる人間だって、頭に血が上ってない人は、そういうのはウザイなあと思ってるはずです。でも、そのウザイ感じは、うまく折り合いをつけるべき事柄であり、消滅させることは、たぶん、できない。

「あなた、それはちょっとやり過ぎじゃないですか」

と、とりあえず、個別に、gentle にひと声かけるところから、硬軟織りまぜた対応で色々試行錯誤するのがいいんじゃないか。

Anhang: Der Fall Izumi Hall

で、私は、いずみホールの「営業」は、仕事熱心なのはわかるけど、ちょっとウザイときがあるよなあ、とか思ってしまう(笑)。

すべてのお客様に最上級の芸術の庇護者の気分を体験していただくホール。大衆化路線とも格式張った高級路線とも違う、ありそうでなかったユニークなコンセプトがいつの間にかできあがりつつあるのかもしれず、それはいいと思うのですが、

(一流のソムリエみたいな感じに館長や座付き団体音楽監督の「顔」がお客様から見えていて、そういう目利きの人たちがお薦めする銘柄に出資する感覚でチケットを買い、株主優待券で入場する感じがある。まさに「ザ・シティ」の「シティズン」を体験するプランです。フェスティバルホールのフェニーチェのときみたいな、ちょっとケバケバしい「見栄の散財」とは違うタイプのお客様が集う場所になっていることは本当に貴重なことだと思う。父のささやかな遺産整理で立ち寄った銀行・証券会社・保険会社の資産管理部門の少額の面倒な客にもさらっと(←それこそ gentle に)対応する雰囲気と通じるところがあって、「企業イメージ」(住友生命は大阪のあそこが本社なのです!)とも良い意味でマッチしている。三輪眞弘さんはポップスを「録楽」と呼んでいらっしゃるそうですが(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20130628/p1)、ここに育ちつつあるのは、金融業ならぬ「楽融」業なのかもしれません。

ウィーンの楽友協会ホールというと、世間はドイツ(当時のオーストリアはドイツの盟主を自負していました)の会社乱立時代の「キンピカ」を連想するわけですが、

楽都ウィーンの光と陰

楽都ウィーンの光と陰

参考:

ここはそういう金箔のマネッコをするのではなく、ムジークフェラインの「実質」を範として、「音響がいい」だけじゃなく、「楽友」から「楽融」を学びつつあるのかもしれませんね。)

伊藤博文―知の政治家 (中公新書)

伊藤博文―知の政治家 (中公新書)

大日本帝国憲法はビスマルクのドイツ帝国の憲政に学んだと言われますが、伊藤博文以来、「憲政の父」として日本の政府関係者が相次いで教えを請うたシュタインは、プロイセン主導のドイツ帝国からはじき出されたオーストリアの、ウィーン大学の政治学教授らしいですね。プロイセン史観とは違う、ありえたかもしれない「もうひとつのドイツ」ということでしょうか。

(著者は某先生の御主人、という下世話な興味で手に取った本ですが、とても勉強になりました。明治な感じがする文体に味がある。)

ともあれこういうのは、あくまで、最上級の芸術として品質が維持され、ふさわしい取り扱いが達成されてこそだと思いますし、そこは、妥協なく、まだまだ追い込んでいけるところがあるように思うのです。

お客さんから直接見えないところに手間とコストをさらにかけることを親会社さんが納得してくれるものなのか、めちゃくちゃ難題なのだろうと思われ、「人情」としては、よく頑張ってるよねえ、と言うべきところなのだとは承知しておりますが、

「親はなくとも子は育つ」と言うけれど、親の器が大きければ、子供にさらなる品格が備わるかもしれないわけで、おそらくそれが成熟社会。