次は「歌手の時代」になって欲しい(いずみホール「シモン・ボッカネグラ」、バーゼル歌劇場「フィガロの結婚」)

話題の力作:http://gendai.ismedia.jp/articles/-/36294

橋下くんみたいなタイプの詭弁家は進学校の各学年にひとりずつくらいいるものだ、という気がします。ああいうのは直らないので、言うだけ言わせて、取り合わないのがいい。主君押込め、にしましょう。

[追記:集中連載さらに1回ありました(→http://gendai.ismedia.jp/articles/-/36328)が、新聞については「もう昔ほど読まれてないんだから開き直れ!」でなんとかいけそうですが、じゃあ、テレビはどうか。「あまちゃん」なるドラマがネット上で(も)絶賛されるということは、まだ放送という鉱脈は枯れ切っていないと思われ(「国民の皆様」への無料放送続いてますし、新聞ほど「報道」が成熟していないメディアだし)、しばらくすると、よりヴァージョンアップした第二の橋下(=第三の田中康夫/小泉純一郎)が出る可能性は、まだ対策が見つからないまま、宿題として残っている気がします。次の選挙で橋下くんを大阪市へ押し込めたとしても、そこで終わりではないし、テレビは、新聞・出版の活字界と異なり、松本創さんのように元「中の人」なフリーランスの場所がない。民放の経営が苦しくなってきたときに、日本版FOX-TVみたいのが近々出てきたりする可能性はないのかしら。大丈夫なの。

たぶん、国家が税金で「現代文化研究」にムダ飯喰わせているのは、そういうときのための保険のはず。みなさん、今のうちに頼れる一介の「中市民」道を盤石に究めておいてくださいね! 世間はまだ、「今ではもうサブカルこそが文化なんだからサブカルゆうな、クドカン最高」あたりで「現代文化」の認識は止まってますからっ!]

で、やや強引に話をこじつけますと、いわゆる「読み替え演出」は屁理屈、詭弁の温床になる危険と裏腹なのは否定しがたく、そろそろ一巡して、飽きられる頃合いではなかろうか、と思ったりもしております。

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いずみホールの先日の「シモン・ボッカネグラ」は、堀内康雄さんがバリトン人生の目標だと考えていたに違いない題名役を歌う機会に恵まれて、無事にやりおおせた、というのに尽きると思っております。

それ以上でも以下でもない。

そしてそうなんだったら、せっかくだから堀内康雄をど〜んと全面に打ち出す売り方、上演形態にしちゃえばよかったんじゃないかと思った。

各部署の人たちは、そういうプロダクションなのだとわかった上でそれぞれにできるベストを尽くして、だから悪い公演ではなかったと思うけれど、そういう個々の「いい仕事」がボトムアップに積み上がってまとまる何かが足りない感じ。

政治とはチェスのようなものだ、みたいな演出上のメッセージは、作品解釈としてはあり得るかもしれないけれど、それは座長の力を削ぐことなので、「この公演」の演出としては間違いだと私は思う。

(粟國さんには、こういう風に妙に理屈が先行する演出と、歌手を生き生き動かす演出と、二系統ありますよね……。)

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びわ湖ホールにどうしてバーゼル劇場のオペラ斑が来たのかと思ったら、去年やった「コジ・ファン・トゥッテ」がここと提携していて、もうじきバーゼルでやるんですね。

私は、去年の「コジ」の歌手を手駒のようにカチャカチャ動かす演出が嫌だったし、今度の「フィガロ」も、いかにもそのデルノンが抜擢した人だからこうなのかな、と思った。こういうのをやるとマスコミが誉めてくれるので、いわばマスコミ対策として止められないとか、そういうことなのでしょうか。(いずこも同じ地方公立劇場の悲哀?)

スザンナとフィガロが「いつの間にか」仲良く協力するようになっているし、入口でひっかかったベッドは「いつの間にか」問題なく搬入できてしまうし、「問題」らしきものを提示しておきながら、ちゃんと解決しないで次へ流れていくので入り込めない。世間は細々した「問題」にいちいち目くじらを立てるが、そんなものはほっとけばいいんだ、と考えてる人が作った舞台のように見えてしまいました。色鮮やかな熱帯魚が泳ぐ水槽みたいで舞台はきれいでしたけど。最後の丘の上の公園から見下ろすロスの夜景も……。

歌手の皆様は、どなたも舞台映えするビジュアルでいらっしゃって、何よりもアンサンブルが上手。個人として歌うときは、ありゃ、と思うのだけれど、何人かが絡んで、いきなりひと声ふた声ハモる、というようなところがびっくりするくらい美しくて、マドリガルなどを専門にする声楽アンサンブルみたいな感じ。

バスタブにひっくり返って両足だけポンと外へ出す、みたいなことさせられても(コンヴィチュニーが二期会の合唱団の女性に大きなお鍋の上でウンチやオシッコの格好をさせるのは、何故そうするのか舞台を見ていれば理由がわかるし、頑張ってる姿にちゃんと観客の注目が集まるように工夫されているけれど、あの二本足は本筋とは違う隣の部屋で、しかも意味わからないから「やり損」だと思った、こういう無駄打ちの多い演出を「クール」と形容するのでしょうか……)、それでも歌手の皆さんは、指揮者やコレペティさんやオケのメンバーと気脈を通じて、このハーモニーだけは崩さない、みたいな真面目を感じました。(レチタティーヴォは、コンティニュオの数々のお遊びだけでなく、歌手のピッチが正確でハーモニーの透明感を保ちながら進行するので気持ちが良い。あと、もはやソット・ヴォーチェですらない「囁き声」を活かそうとする場面がいくつかあって、演出なのか指揮者の判断なのかわかりませんが、声を張らない室内オペラ風が面白かった。)

演出でオペラを見るブームが去ったあとに(やる人はやるなと言われてもやり続けるだろうから「ブーム」は別に去ってしまってもかまわない)、このチームワークの良さが生きるプロダクションに恵まれたらいいですね。

(小学生の懸賞作文みたいな結論ですが……。)