若林幹夫『郊外の社会学』の後半は、団地生活40年のモヤモヤをだいたいこの辺に位置づけたらいいのだとわかって有難かったですが、ここでは、『社会(学)を読む』で渡辺裕への打棄が決まるシーンについて。
たとえば渡辺裕は『聴衆の誕生』において、アドルノが想定するような「真面目な聴衆」とは異なる「軽やかな聴衆」が、クラシック音楽愛好家の世界にも生まれたのだと論じている。(32頁)
- 作者: 若林幹夫
- 出版社/メーカー: 弘文堂
- 発売日: 2012/09/27
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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最初の章に東京のジュンク堂の社会学の棚の話が出てきまして、大阪・梅田のジュンク堂の「社会学一般」の棚でこの本を偶然見つけて買ってきた者としては、しっかり心をツカまれてしまったのですが、
続く「ミステリとサラダとアドルノ」の章は、ブラームスのシンフォニーのワンフレーズの「つまみぐい」にアドルノが苦々しく言及する一節(「音楽における物神的崇拝と聴衆の退化」)が上記の注釈を挟みながら紹介されておりまして、不穏な雲行き。
『アドルノ伝』を参照文献に挙げながら
ポピュラー音楽とそのファンに対するアドルノの言葉は、批判というよりも批難や嫌みに近い部分もあって、1960年代末の西ドイツの大学闘争において学生たちの攻撃の対象になったのも無理もないと思わせるものだ。(33頁)
- 作者: シュテファン・ミュラー=ドーム,徳永恂
- 出版社/メーカー: 作品社
- 発売日: 2007/08/27
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と例のオッパイ騒動まで紹介されてしまって、もはや万事休す。
参考:http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20101225/p1
「こんなにしなやかにモノを考える人でも、クラシック音楽の話になると渡辺裕流の「軽やかな聴取」の軍門に下ってしまうのかっ、所詮社会学なんてこの程度なのかっ!」
と心底がっかりしておりましたら、次の段落で急転直下に形勢逆転。
そんなアドルノの議論をここでとりあげたのは、音楽の「全体的把握」や「構造的聴取」に対応する書物の「全体的把握」と「構造的読解」とでも言うべきものが、「社会(学)を読む」ためには必要だと考えるからだ。
「軽やかな聴取」をさらりと受け流してしまうのでした。
(念のために申し添えますと、次の第3章ではベンヤミン「パサージュ論」を取り上げながら、「全体」や「構造」がない、もしくは、見とおせない現象との付き合い方の話がちゃんとあります。こうした書き方から、著者が、婉曲なやり方によってではありますが、渡辺流考現学とベンヤミン流都市遊歩術を混同していないことがわかります。大いに賛同したい!)
しかも、章題にある「ミステリとサラダ」は許光俊で、以下、この章で詳述されるのは、真木悠介『時間の比較社会学』のなかの松下眞一を引用しながら論を進める箇所。
2012年の「ゲンダイオンガク」書以外の現役出版物のなかに松下眞一の名前と文章が出てくるとは。
反時代っぷりがかっこよすぎます。平成の「うっちゃり双葉」(意味不明)。
(まだ読みかけなのですが、とりあえず、それだけ言いたかった。[追記:読了。『郊外の社会学』もそうでしたが、後ろにいくとだんだん筆の勢いが落ちる感じがあるかも……。残念。] [さらに追記:もう一回落ち着いて読み直して、『社会(学)を読む』第9章以後の後半部は、社会学の古典を読むことと、著者の専門である都市論を結び合わせる重大な議論であるらしいことがわかってきましたが、こんなに大きな話を一挙に見通しながら考えた経験が私にはないので、すぐに理解するのは無理。都市の全体像を一度に見通すことができるような脳内メモリの配置を整えるなど、あとでもう少し下準備してから読み直す、考え直すことにします。])