訳詞のオペラ・ブッファ:チームプレイだからできること

今年の初めに二期会の「こうもり」があったし、2年前の広渡勲演出の「こうもり」も日本語、かなり前にびわ湖ホールで岩田達宗演出の「ミニヨン」があったし、記憶を掘り返すと訳詞オペラを何度か見ていますが、兵庫芸文の「セヴィリアの理髪師」で訳詞初体験のような感じがしたのは、日本語のレチタティーヴォがあったからかもしれません。

韻文をモノディやレチタティーヴォの様式で歌うのがイタリア語としてどんな感覚なのか、それと対比したときに、日本語訳詞のレチタティーヴォにどういう工夫や違いがあったりなかったりするのか。モーツァルト作品の日本初演まで遡って本気で調査・整理できないものだろうか、と時々思うのですが、

そういうことを考えるためにも、モーツァルトの主要作品の日本語上演とか、やって欲しいです。

[追記]

http://mainichi.jp/feature/news/20130717ddf012040024000c.html

兵庫芸文は震災復興10年目2005年秋にオープンして、これでオペラは8作目。2006年「蝶々夫人」、2007年「魔笛」、2008年「メリー・ウィドウ」、2009年「カルメン」、2010年「キャンディード」、2011年「こうもり」、2012年「トスカ」、2013年「セヴィリアの理髪師」。各公演ごとに特色を出しながら、こうして眺めると、ラインナップはバランスが良いんですよね。その点でも他の追随を許さない感じになりつつある。

オーケストラを若手のみの3年契約にしたのは、オケ作りのやり方としてどうか、という意見が当初からありましたが、劇場としてのトータルな運営を考えて、オーケストラの役割はどれくらいで、そこにどれだけの力を割くことができるか、という順序で考えたとしたら、つまり、単体としての「交響楽団」を創るのではなく、オペラ公演のための座付き楽団を持つにはどうればいいか、と考えた場合には、これでよかったのかもしれません。それは、年一回のオペラ公演をこれだけ本格的に続けた実績が積み上がったから、見えてきたことですが、やっぱり長く続けないと言えないこと、わからないことがある。

10周年が間近に迫って、「20周年」という言葉も出てきたようで……。佐渡裕はオペラの、というか、劇場の指揮者なのかもしれない。周りに腰を据えてやれるチームができつつあるように見える。たぶん、劇場ではそれが大事。