1961年 - 大阪発の現象を「東洋の……」と形容した世間の気圧と熱量(新雅史『「東洋の魔女」論』)

一九六一年(昭和三六年)には日紡貝塚単独でヨーロッパに遠征し、当地のナショナル・チームを相手に二二連戦全勝という快挙を成し遂げた。「東洋の魔女」というニックネームは、この連勝の際に、ソビエト(ソ連)のメディアが称したものを国内メディアが採用し、日本中に広がったことに由来する。(4頁)

「東洋の魔女」論 (イースト新書)

「東洋の魔女」論 (イースト新書)

わたしは、開始早々のこの記述だけでもう勝手に泣いてしまいました。

参考:http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20120318/p1

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現行の音楽史学の枠組み、もしくは営々と積み上げられてきた音楽論のトピック群と照合すると、「大栗裕とバルトーク」はリンク先のように整理できると思います。

そしてそのうえで、1960年代の「東洋の魔女」旋風は、リンク先の最後に書いた疑問に取り組むヒントになりそう。

「東洋のバルトーク」問題は、実はあまり似ていないのにどうして大栗裕からバルトークが連想されてしまったのか、両者の差異を乗り越える語り手の欲動は何だったのか、という視点で見ていったほうがいいのかもしれませんね。

「東洋のバルトーク大栗裕」という呼称について思うこと(暫定) - 仕事の日記(はてな)

しかも新雅史さんの本は太陽のようにまぶしい熱光線で色々なことを「白日の下に晒す」強い文体で、それで私はまぶしくて泣きそうだったのでした。(私は生まれつき軽い眼球振蕩で、強い光に弱いのです、マジで、笑)。

上のリンク先にもちょっとだけ出てくる西村朗は、大栗裕の没後30年演奏会の10ヵ月後に大阪で還暦を祝って、名実ともに大阪の作曲家に「なった」と私は受け止めています。(そのようなアングルからあの演奏会を語ることは、演奏会の主催者には歓迎されなかったのかもしれませんが(笑)、でも、そう思ったんだからしょうがない。)

アジアの光の作曲家が大阪で強く輝こうとしているときに、50年前の大阪の「東洋的輝き」の記憶を掘り起こすのは、時宜にかなったことだと思うのです。

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165頁に年表があって、

  • 1961年8月19日 日紡貝塚ヨーロッパ遠征、10月19日、3大陸カップで優勝
  • 1962年6月6日 IOCモスクワ総会で、東京オリンピックでの女子バレーボール開催が決定

こうして日紡貝塚が「東洋の魔女」になった頃、同じ大阪のキタのクラシック業界(もちろんはるかに小規模)では、

  • 1961年11月27日 第16回文部省芸術祭参加作品として大栗裕の交響管弦楽のための組曲「雲水讃」放送初演(朝日放送)
  • 1962年1月12日 大阪フィルハーモニー交響楽団第15回定期演奏会で「雲水讃」演奏会初演(毎日ホール)
  • 1962年1月〜3月 朝比奈隆が渡欧、各地で「雲水讃」を指揮

まだ傍証(本人の手記)があるだけなのですが、どうやらこのとき「雲水讃」が「バルトークと比較され好評を博」し、これが、のちの「東洋のバルトーク」という大栗裕のニックネームの由来であると思われます。そしてそれは、世間が「東洋の魔女」という言葉で日紡貝塚に注目したのと同じ時期だったようです。

大栗裕は翌1963年には、毎日放送の芸術祭参加作品として、辻久子の独奏、朝比奈隆の指揮する大阪フィルのためにヴァイオリン協奏曲を委嘱されますが(大栗が依頼を受けた時点でこのキャストが既に決まっていた)、これは、(おそらく周囲から「東洋のバルトーク」と言われるようになって)バルトークの作風を意識して作曲したと思われる最初の曲。辻久子は、「東洋の魔女」の皆さんがソ連を破る2年前の1959年にオイストラフを頼ってソ連へ行っています。

大栗裕 : 大阪俗謡による幻想曲、ヴァイオリン協奏曲 他

大栗裕 : 大阪俗謡による幻想曲、ヴァイオリン協奏曲 他

冒頭の小太鼓とか、第3楽章冒頭のホルンとか、元ネタはきっと……

さらに次の年1964年があの東京オリンピック。「東洋の魔女」の皆さんは引退して主婦になって、大栗裕はホルン奏者を辞めて京都の大学の先生&専業の作曲家になった……。先のヴァイオリン協奏曲は、大阪の放送局が大阪の作曲家・演奏家による作品で本気で賞を取りに行った企画だったと思われ、受賞を逃したのち、大栗裕は「賞取り合戦」に関わらなくなっていく。

(現在日本のクラシックコンサートの出演者は、ほぼ全員、何らかのコンクールやコンテストの受賞歴があります。そしてこれは、こんな言い方を不快に思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、そのような皆様の不快感もまた、この現実が生み出した「症状」かもしれないという認識のもとで敢えて書くと、テレビ・映画に出てくるキレイな女の子たちがほぼ全員、グラビア経験を経て芸能界にメジャーデビューしているのと同じことだと、キレイなキレイな公演チラシを見ながら、いつも私は思います。舞台人が何らかのイニシエーションを経た「特別な人たち」なのは古今東西どこでもたぶんそうですが、日本のエンターテインメントは、高尚なものもそうでないものも、表舞台へ通じるところは、かなりシステマティックに一本道になっているように見えます。そういうイニシエーションを迂回した人たちは「イロモノ」枠になる。

これはこういうものなのか、いつからこうなったのか。「東洋の魔女/東洋のバルトーク」(のその後)は、そういう仕組みとの付き合い方を考えるひとつのヒントかもしれないし、ドラクエのすぎやまこういち、ジブリの久石譲のオーケストラコンサートが国内外で大入り満員になるのはどういう力学なのか、ということを見ないと、吉松隆さんのイレギュラーかもしれないし、反転して実は時代のど真ん中なのかもしれない成功の勘所は、十分に説明できないかもしれない。

一本道な大通りと、その周辺の「イロモノ」、高級な芸術と大衆の芸能、という昔からの図式では汲み取ることができない現象が結構ある。そこは、定義上「道」(メインストリーム)ではないし、サブサイドとしての「居場所」を(合法であれ非合法であれ)占有できているわけじゃないはずなのに、何をどうやったのか、結構な人が実はそこにそれなりに楽しく住んでるじゃないか、というのが、「世の中案外捨てたもんじゃない」と思えることであり、今はそういうのが求められ、受ける風向きなわけですね。宣伝であれ論評であれ、そういうものに言葉で触るのは結構難しい挑戦になるけれども、それぞれの立場で分け入らないとしょうがない。

最初にそういう見えない場所を探り当てたのがエンタメ産業の人々と新左翼さんで、今ではそこにサブカル・オタクの豊かな楽園があると信じた役人さんが「クール・ジャパン」開発計画を立ち上げたり、「ネット」こそがその不可視の世界への入口だと信じて企業さんが食い込みに躍起だったり、いやいや、そこはサバルタンな女性と子どもの領域に違いない、ということで、女性の目線が強烈に意識されるようになり、さらには、「そこは日本だけれども中国なんだ」「たしかに今は平成21世紀だけれども、日本のボリュームゾーンは今も江戸時代なんだ」と、ものすごい角度から歴史学者が参戦したりした10年だったわけですが、どれも成功しているようなしていないような……。)

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そういうわけで、「東洋の魔女」を背景に置くと、「東洋のバルトーク」という言葉が生まれた時代の空気がわかる気がするのですが、でも、改めて考えてみれば、なぜ「東洋の……」だったのでしょう?

まず、「海外」のスポーツ・ジャーナリズムや音楽ジャーナリズムの視線があって、貝塚のバレーボール・チームや船場生まれの作曲家がこれを我が身に引き受ける「見る/見られる」の関係がある。

そしてその際、

  • 「世界の……」と胸を張る自信はまだなくて(今では日本国内での新作発表を「世界初演」と銘打つ場合もあるが)
  • 「日本の……」とナショナル・アイデンティティを打ち出すわけでもなく(=ナショナル・チームを「なでしこ」とか「サムライ」と呼ぶのとそこが違う)
  • その一方で、「船場島之内の……」とか「泉州貝塚の……」とか「浪速・大阪の……」とローカルな存在に自足しているわけにはいかない風を感じている

そんな気圧配置における世評台風の落ち着き先が「東洋の……」だったのでしょうか。

大阪発の現象をマスコミにのせる惹句において、「世界/東洋/日本/浪速etc.」といった語句はどのように使い分けられ、その都度どの程度に恣意的で、どの程度に妥当だったのか。敢えて大きめ/広めに言うのか、案外そうでもないのか。誰か調べてみませんか? 言説分析の社会学、由緒正しい「CCS」=コンテンポラリー・カルチュラル・スタディーズができそうです。

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京都女子大教授になる前の数年間、1960年代前半に大栗裕に出会った人たちが、「大栗先生」or「大栗さん」に対して一番熱い。私はそのような印象を抱いております。

『「東洋の魔女」論』の本筋とは違うところかとは思いますし、本筋で色々なことを考えるきっかけになりそうな本ではありますが(例えばうちの母も高校時代にバレーをやっていたそうで、前に書いた地元の熱血オバサマもママサン・バレーで鳴らしたらしい)、大阪のクラシック音楽も、1960年代前半は熱かったようです。

大阪の夏、大阪は夏。