1970年代の闇

民主が落ちて共産(大阪)は、わかりやすい結果なのかな。

「良いヤツなのに民青」だったり「面白い男なのに学会」だったりする人間と不毛な論争をせねばならなかった経験が私の世代の政治忌避の原点なわけで、そう思うと30年前から若い世代の投票率が一貫して低いことには説明がつく。つまり、若い人たちは政治なんかでギクシャクしたくないんだと思うよ。

若者に向けて投票を呼びかけている年長者が、そろいもそろって、「ああいう大人になりたくない」感じの中高年であることは、あまりにも神秘的な偶然ですね。

個人同士のコミュニケーションが集票・集客マシンに組み込まれることへの嫌悪感は、そういうことだと思う。

だからどうするかというと、行く人は黙って投票する。

(コンサートホールのロビーでは、音楽とつかず離れずの話をして、あんまり核心に迫らないのが礼儀、というのも同じことだと思う。(仕事のときはその限りではないけれど。))

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曲がった家を作るわけ

曲がった家を作るわけ

西村朗は、市役所の戸籍係だったオカアチャン(先の室内交響曲第4番作曲中に死去とのこと、こっちはその曲の初演を父の死の数日後に聴くことになった、そういう予期せぬ因縁、シャレにならないことがあっちこっちで水面下で起きるのがライヴという事業なのだということをわかったうえで商売していただきたいものである、十把一絡げはダメ)が強烈な人だったみたい。名門中学への越境入学、教育長とのコネ、三木楽器の店員を通じての音楽教師の調達……。

芸大で、「書ける奴」と認知されて先輩・同期の課題を徹夜で仕上げる話は、今でもそういうことはありそうだけれど、他のエピソードと組み合わせると、なんとなく「1970年代の闇」を感じる(参考:http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20130616/p1)。どうやら、色々なことがここから始まっているような気がする。

全編書き下ろしで、既存の対談本の話し言葉とは文体が違っているのも、この人のなかで70年代に形成された自我がそのまま今へつながっている気がして、ドキリとする一因かもしれない。話し言葉と書き言葉の違いは重要。

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20130711/p1

柄谷行人蓮實重彦全対話 (講談社文芸文庫)

柄谷行人蓮實重彦全対話 (講談社文芸文庫)

この人たちの何が面白かったかというと、対談がスリリングだったですよね。二人でやるときも、他の人とやるときも。(実は柄谷は、対談の原稿に徹底的に手を入れる人らしいが。)

そしてそのように70年代から持続している印象が強い西村朗の自我は、だからこそ保守本流の「現代音楽作曲家」になれたのだろうし、そこが、70年代の狂気の独学時代を「記憶喪失」と形容する吉松隆=蓄積された膨大な無意識を現在の盤石の「私」が工学的に制御する吉松流の音楽生産システムとは、構造が根本のところで違う気がする。(西村自伝の自我は、前衛作曲家の先例を踏まえた姿をしている。さらにその向こうに大阪時代をかいま見せながら……。)

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20130713/p1

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宮台真司をはじめて読む。

増補 サブカルチャー神話解体―少女・音楽・マンガ・性の変容と現在 (ちくま文庫)

増補 サブカルチャー神話解体―少女・音楽・マンガ・性の変容と現在 (ちくま文庫)

「かわいい」の分析とか、そうかなるほど、と思って、この知識を手にタイムマシンで70年代の中学・高校時代へ戻れたら、あの子のハートをゲットできたかも、と思ったりした(笑)。

それは半分冗談、半分本気で、サブカルチャーの記号(言説)分析に力点を置きすぎると、当時の記号発信者の脳裡に浮かんだ理想像を探っている感じになって、上滑りする危険がありはしないのだろうか。それを社会調査と言われると、少々不安になる。これらの記号(言説)がどの程度の範囲に受信され、そのうちどれくらいの人が受信した記号を実践・活用できたのか、あるいは受信しても「絵空事」でしかなかったのか、母数が気になりました。

理論社会学はそれでいいのかもしれないけれど。ルーマンよく知らないし。

でも70年代80年代には、その周辺にもっと古色蒼然とした自我を抱えて右往左往していた人が少なからずいたんじゃないだろうか。(そうでなければ、西村朗は誕生しないわけだし、ちょうど1970年の毎コンにオジサンたちがせっせと応募していたように、2013年に小林秀雄的な批評の再興を目指して、「白石はまだ生ぬるい」とヤジを飛ばす方もいらっしゃる、それくらいに、世界は同時代の非同時代性に満ちている。そしてそれをたとえば「進んだ都会vs遅れた田舎」の図式に押し込めるのは欺瞞的だ。)