ジークフリート牧歌

必要があって真面目に調べて聴き直したら、かなり面白い作品だった。

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リストがベルリオーズ論で使ったのが初出であるらしい「標題音楽」は不思議な概念で、色々な議論があるけれど、結局のところ、「ソナタ(形式)」の機微がわかってはじめて面白くなるように書かれている音楽は、ただの描写や劇伴よりワンランク上だという通念が、19世紀にドイツを中心にあったのだと思う。

そして「ソナタ(形式)」の機微は、色々な理論書、解説書があるけれど、なんといっても古典派のソナタを自分で弾いたり、カルテットに参加したりしないと体感できないので、標題音楽を聴いてニヤリとできるのは、そういう素養がある人間だけだ、という形で「教養人」とそうでない人間をふるいにかける装置になったのでしょう。

(標題音楽や交響詩を持ち上げたのは新ドイツ派=右翼だし、ロシア・東欧のインテリゲンチャは、標題音楽を書いて一等国の仲間入りを果たそうとした。)

で、ジークフリート牧歌はソナタですね。

寝室の夫婦の会話みたいに「純潔」と「まどろみ」が絡み合う第1主題がひとしきり続いて、「ポポポポポ……」と管楽器が屋外からの自然音のように割ってはいるあたりで転調して第2主題になり、一瞬の間があって、ここからなにやら気分が身もだえする感じに盛り上がっていく。このあたり、カット割りの演出とソナタの進行がなかなかうまく一致しているようです。そしてオーボエが民謡「眠れ、幼児よ」を吹くところは、いかにも大きな段落のしめくくり、提示部の結尾ですから、一歳になる我が子ジークフリートこそが夫婦和合の結末、家庭の平和の要点みたいな位置づけなのでしょう。(家族の諸主題が展開する家庭交響曲の遠い先例という感じがします。)

展開部がユニークで、既存の主題を加工・変形するかわりに、森のざわめきが魔法の扉を開くような役目を果たして、オペラ「ジークフリート」の世界へ入っていく。このオペラとジークフリート牧歌の関係は、ウィキペディアによると両者に先行する室内楽草稿があるようで、資料的には単純ではないみたいですが(きっとそういう研究があるんでしょう)、牧歌作曲の1870年末には「ジークフリート」の概要が固まっていたようですから、夫が妻を、準備中のオペラの制作現場へのヴァーチャル・ツアーへ誘った、みたいに受け取っていいんだろうと思います。

提示部がいちおうソナタっぽくかっちり書いてあるのに、「世の宝」を執拗に繰り返して盛りあげるところは彼の楽劇の一部分みたいですし、頂点に達したところで手早く撤収して「愛の絆」のホルンが登場する場面転換の呼吸は、コンサートというより舞台ですよね。そしてそのまま再現部へなだれこむ力業はいかにもワーグナー。

(再びウィキペディアによると、ワーグナー夫妻には、森にまつわる私的な思い出があったのではないかとのことですが、展開部への神秘的な入り方などを考えると、確かに意味ありげではありますね。率直に言って、コジマ(33歳の誕生日を迎えたところ)とリヒャルト(当時57歳)の愛の物語をそれほど具体的に知りたいとは思わないので、そこは詮索・解明してくれなくてもいい気がしますけれど……。あの二人のプライヴェート・ビデオがYouTubeに流出したとして、本当に見たいか?というようなもので。)

愛の空間 (角川選書)

愛の空間 (角川選書)

井上章一は、昭和の半ば頃まで野外の性交を不自然に感じない人がいたらしいことを文献で探り当てていますが、ドイツの恋人たちは夜の森で何をしていたのか。そういえば、恋人たちがそこにいて不自然でないように「ト書き」から自由に設定を工夫するのは、読み替え演出の大事なポイントのひとつなんでしょうね。

そしてコーダは「オレンジ色の夜明け」なのだそうで、夢から覚めたんでしょうね。

ソナタを書くことが、和歌を詠んだり、漢詩を作るのに似たカジュアルな創作手法に感じられたのであろうミュージシャンの家庭のプライヴェート音楽という感じがしますし、行儀良く整った「家庭」の側から権謀術数渦巻く劇場の世界をのぞき見るところが、この夫婦は、こんな風に寝室で夫の家庭外での仕事のことを話題にしたのかなあ、と思わせる。

立派な家(曲がっていない家?)を構えるブルジョワ音楽家の作品だなあ、という気がします。コジマは、リストとダグー伯爵夫人の間の二人目の子供で、貴族の家を転々としながらかなり厳しく躾けられて育った人で、前夫ハンスのビュロー家は、コジマを預かっていたベルリンの名門貴族。私生児(今風に言えば非嫡出児)とはいえ、彼女はワーグナーから見ればお姫様だったのだと思います。