「万博」型と「テレビ」型

戦争中に、音楽学校を出た男が大阪で音楽事務所を開いた。戦後オーケストラが出来たときに、かつて大学の恩師でもあったそのリーダーに手伝えと言われたので、オーケストラの裏方に入り、事務所の受けていた仕事は、残った者がのれん分けのような形で引き継ぐことになった。

オケマンやその関係者が(ときには演奏活動を続けながら)マネジメントをやる、というのは当時は(ひょっとすると今でも)それほど規模が大きくないヨーロッパの都市などで、ごく普通にあることみたい。

さて一方で、そうこうするうちに新聞社がでっかいホールを建てて、年に一回音楽祭をやることになった。立ち上げ時は、戦前から上海やフィリピンにいて、欧米の音楽家の旅公演を手配していたユダヤ人と組んだと言われている。20世紀初めのパリでは、アストリュックというユダヤ人が東欧(アルトゥール・ルビンシュタインとか)やロシア(バレエ・リュスとか)の人材(←まさに素材・マテリアル、グローバル人材ってのはこういう手配師に上手に使われる素材になれってことですのよ、奥さま、まあどうしましょう!)を入れて興行を差配していたとも伝えられ、こちらは、20世紀の欧米流の見世物興行のスタイルと言えようか。

そして万博である。

クラシック音楽は、新聞社のでっかいホールの例の音楽祭を半年に拡大したら格好がつくだろうと主催者側は考えて、新聞社を運営サイドへ抱え込もうとしたのだけれど、どーも上手くいかなくて、色々あって、例の音楽事務所をのれん分けしてもらったところが食い込み、それでここの「国際的」なコネクションが一挙に広がったと言われている。

「万博型イベント」は代理店が暗躍する、と言われるし、堺屋太一は、愛知万博に3ヵ月だけ関わったときに「万博はプロでなきゃできない」と豪語して顰蹙を買ったらしいのだけれど、商売というのがしばしばそうであるように、万博がそういうもの、になっていく原型としての1970年大阪のケースの舞台裏は、案外、偶然というか、そのときの色々な綾でこうなったということに過ぎないらしい。

でも、いずれにしても、そこがどんどんおっきくなっていくので、音楽マネジメントというのは、自身も音楽家出身で「音楽家の気持ちがわかる身内」の感覚をベースにして、成功事例としての「万博型イベント」をまとめるのが得意というか、お家芸なところがあるかもしれない。少なくとも、そのタイプのイベントについては40年のノウハウの蓄積があるわけだ。

マネジメントさんというのは、出版の編集者さんに似て、いつかは「自分の城」を持つのが夢であるようで、そこから独立した人というのもいっぱいいる。「万博型イベント」が国内津々浦々へ浸透するのは、それを請け負う人がこうやってしっかり育ったからなのだと思う。

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ところで一方で、そのうち今度は放送局が、さすがにテレビ(見せるメディア)の会社だけあって、とってもきれいな音楽堂を作った。こっちは会社の施設なのでテレビ局の人が運営するわけだけれど、改めて思い返してみると、「万博型」とは若干肌合いが違ったかもしれない。○○年に一度の非日常ではなく、放送は24時間一年365日稼働し続けるシステムで、ひょっとすると、そういう風に長く動かし続けるノウハウみたいなものが入っていたのかもしれない(違うかもしれないけれど)。

システムを安全に稼働させるのはお手の物、ということなのか、こちらの関係者も各方面でご活躍であるような、ないような。

イベントの花火を上げる「万博」型と、システムを回す「テレビ」型。

どこでどっちがどのように作動しているか。あなたはどちらがお好みですか? 「民都・大阪」の1970年からこっちの半世紀弱は、これでどうか。

(これでいくと、「テレビ」の市長が「元祖万博」堺屋太一とタッグを組むのは、いかにも「混ぜるな危険」ということになりそう。一年365日24時間が常に「万博」である状態が「テレビ」的システムとして常時稼働してしまったら、そら、悪夢、ディストピアだわ。)