[加筆に伴いタイトル変更]
(さて、おかしなことを言う人はほっといて、)
ショパンなど19世紀の音楽家たちを論じるときに、先行音楽からの影響が長らく主に論じられてきたのは、19世紀に入るとピアノ音楽などを中心に音楽作品の生産量(宮廷などで使い捨てられることなく楽譜や公演記録が残るような)が爆発的に増えて、同時代のことは未だに誰も細かいところまで調べ切れていないからであって、
どういう事情なのか、西原先生は昔から出典・文献を示してくれない。ひとりで全部をやれる分野ではないはずなのに……。ピアノ大陸ヨーロッパ──19世紀・市民音楽とクラシックの誕生
- 作者: 西原稔
- 出版社/メーカー: アルテスパブリッシング
- 発売日: 2010/04/20
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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ついでに言えばそのさらにずっと先で、例えば20世紀以後の地球におけるショパン受容を後世の人が調べることになったとして、ジム・サムスンのショパン論が21世紀に日本語にも訳されており、その訳者後書きや注で何が書かれているか、それはどのような出版社からどのような位置づけで、どういう造本で出たか、といったことまでが調査範囲になるとしたら、どれだけ途方もない仕事になるか……。そこまで話が広がってしまってようやく、ショパンはわたしたちの手元に届く。
あなたがショパンの洗練の極みにうっとりできるのは、あなたとショパンの間に、アリの大軍のようにびっしり無数の人、人、人、人、人、人、人……が連なっているおかげなわけだ。
語る対象と語っている自分のあいだ、人、人、人、人、人、人、人……の連鎖には、あっちとこっち、みたいな都合のいい隔壁はないし、ワープはできないんだけれども、記憶のなかで、途中の色々なものが間引かれる。記憶に残るものは残るし、忘れられるものは忘れられる。
そして忘れられるものは忘れられてしまうのだけれども、でも、その更に先で、たとえば何世紀かあとの言語学者が21世紀初頭の日本語の外国名表記に何故か知らないけれども関心を抱いて、ある人名にどのような表記が当てられているか、ジム・サムスン本の訳書のある箇所に学説上特別な意味をもつものとして注目して、その用例が辞書に掲載されて知られるようになる……かもしれない。忘れられたものの再評価は、それくらい妙な方角からやってくるものなのだろうと思う。その頃にはとうの昔に消滅しているであろう著者の意向は、無関係ではないかもしれないけれども、直接伝わると信じるのも難しい。
で、それはともかく、ヒラーは回想録がしばしば参照されて、楽譜も録音もいちおう出ているので、不幸にして忘れられてしまっている人、という感じではないように思います。
手持ちの情報で当たりを付けてから現地にものを調べに行ったときに、こっちが知らなかっただけのことで、この人/このことは、それなりに認知されてるんだ、とわかることが少なくない。
当てが外れたらどうするか。
- (a) それでも力尽くで「知られざる事実を私は現地で発見した」と帰ってきてから言い張る
- (b) それとも、改めて色々調べたうえで、話を組み立て直して、ウソなしで報告する
とちらを選ぶか、最終的には人間の品性……。
ただし、人間は「見たいものを見てしまう」とも言われており、
- (c) 本当は当てが外れて、「知られざる事実」はなかったのに、「私は新発見をした」と思いこんでしまう
ということもあるから、ややこしい。
(批評も同じで、例えば福田進一は、我々がこういう仕事をはじめるより前からとっくに素晴らしい人なわけで……。既に一定の盛り上がりができあがっているところにあとから入ってきた人間が、どのように振る舞い、その事態をどのように言葉にするか、ですね。)
さらに、
せっかく(b)=「改めて色々調べたうえで、話を組み立て直して、ウソなしで報告」、をしているのに、その報告を受け止める側が「そんな事実があったとは、新発見だ、素晴らしい」とか、こっちの話をロクに聞かずに早合点したりすると、話はどんどん面倒なことになる。俗人が舶来品を有り難がる風潮、そしてそこへ訴えかけるのが早道だ、という宣伝手法はしぶとい。
「自分が知っている世界以外にも世界はあるということに気づかない」を検出することができそうな事例の一変種とも言えるでしょうか。気をつけたい。
(学問というのは、こういう小さいけれどもあとに尾を引きそうな事柄をどう扱うか、アタフタしないための技術や作法の躾を含むのではないかと思うのだが……。誇大な煽りを入れなくても、話の種に行ってもいいか、と思える演奏会だと思うし。
友人の演奏会をセッティングしてくれたのは雇い止めの手切れ金代わりなのだろう、くらいに受け止めて、そろそろ自分の頭で考え、自分の足で歩く算段をするのが良策、なんじゃないかなあ。もちろん、逆に、次の展開の見通しが立ったところで円満に送り出してもらえた、ということなのかも知れず、殿上人の生活は、なにがどうなっているのか、私にはさっぱりわからないけれど。
そしてその上で、色々な背景があるにしても、ともかくも、長年の恩のある年長の友人が関西ではじめてコンサートを開くというのであれば、そしてそのために、恩のある先生が村上春樹までもちだして推薦の言葉を寄せてくれているのであれば、「三つの袋があります」風の一般論として読み流されてしまわない自分の言葉を根性決めて添える時ではないのだろうか。それは、どんなに周囲がヤキモキしたとしても誰も代わりになることができず、あなたにしかできないことなのだから。そういうのを思いつかないとしたら、まあ、しょうがなくて、何となくどこかで見かけたようなことばが「拡散希望」されて、他の似たようなことばと混ざり合いながら散らばっていくだけで終わるのかもしれないけれど。
「大事なことは面倒くさい」(宮崎駿)のですよ。)
この本を読むべきか、読まずに堂々と語るべきか、迷う。
- 作者: ピエール・バイヤール,大浦康介
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2008/11/27
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