大先生から「アホらしいが妙に煩悶させられるコジツケ」の烙印を押されてみたい(コンヴィチュニーの「神々の黄昏」)

タイトルは適当につけたので、大した意味はありません。

ワーグナー 楽劇《神々の黄昏》 [DVD]

ワーグナー 楽劇《神々の黄昏》 [DVD]

  • アーティスト: ボネマ(アルベルト),デヴォル(ルアナ),イトゥラルデ(ヘルナン),ブラハト(ローラント),シュトゥットガルト州立オペラ合唱団
  • 出版社/メーカー: TDKコア
  • 発売日: 2004/12/22
  • メディア: DVD
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ワーグナーのオペラのDVDを頭から通して観る根気がなくて、これも、何度かチャレンジして、いつもDisc 1の途中で飽きて最後までたどり着けなかったのですが、

「松明を上げる動きが揃いすぎないように」とか、「ケーキのお皿はここに置いて退場してください、あとで使うので」(←この場面に限らず、モノを散らかしたあとに、決まって役者自らそれを片づける段取りになっているのが微笑ましい、大暴れするけど、みんな根はお行儀の良い人たち)とか、「そこはまだ立ち上がらないで、膝立ちで移動して」とか、「それではまだ驚きが足りない、もっと端へよって……、まだダメ、落ちそうになるまで端っこに詰めて……そう、それ、Ja, wohl!」とか、

きっとこの場面はこういうこと言いながら稽古をしたのだろうと逐一想像しながら観たら退屈しないのではないかと思いついて、無事完走。

2幕以後が凄いんですね。

ルアナ・デヴォル(おばあさま)のブリュンヒルデが、ターザンなジークフリートを赤ちゃんのようにあやす第1幕の笑顔がものすごく可愛い。(何年も結婚相談所へ通って何十回とお見合いしてそれもだめで、50歳に手が届こうかというときに、ふとした縁でめでたくゴールインした知り合いの方の表情を思い出す。)

だから、第2幕で若いムチムチ娘に夫を奪われたと知り、あとで、そのムチムチ娘が(夫と一緒に)焼いたケーキのお皿(どこで使うのかと思ったらここだった)をメチャクチャに踏みつけるのは、しょうがないと思うのです。浮気はダメです。人として、いかんです。……第2幕、興奮のうちに終了。

こんな修羅場を見せられたら、次に何ができるかというと、(ワーグナーがそういう場面=台本&音楽を書いているからではありますが)茫然自失で癒し系環境ビデオみたいなものでも眺めるしかないですよね。次がライン川を示唆する実写映像になるのは、そういうことなのでしょう。

(ロマン派の交響曲が、ヘヴィーな緩徐楽章のあとでスケルツォになる呼吸ともちょっと似ている。楽劇は可視化された交響曲だ?)

そうして女性が三人出てくると、コンヴィチュニーなので必ず面白い場面になるに決まっている。

おそらく、ジークフリートは、キラキラ光る水面がそこにあるのだから、しかもそこには美しい女性がいるとわかっているのですから、若き日のトム・ハンクスのように迷わず飛び込まなければいけなかったのだと思います。そうすれば死ぬことはなかったはず。

スプラッシュ [DVD]

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案の定、ラインの乙女の皆様に恐い顔で呪われちゃう。人魚なのに、川から上がって舞台の手前まで彼女たちが出てくるのだから一大事。ここでわたくしは二度目の大拍手。

最後がああなるのは知って観ているわけですが、でも、実際にジークフリートが死んで、葬送行進曲になって全員の動きが止まってしまうと、先がどうなるか忘れて、「ああ全て壊れてしまったんだな」と思いますね。お芝居ではなく、静止画像で音が流れるYouTubeのビデオみたいに、音楽というモノだけが残っている。(そうしてそのような状況になったときの音楽は究極に格好よくて……、考えてみれば、ワーグナーは、いかにも、音楽の美のためならばどれほど人間が犠牲になってもいいと思いそうな人というか、芸術至上主義の欲動に火を付けた人ですから……。)

で、グートルーネもまた男社会に翻弄された女性なのだ、のコンヴィチュニーらしい脇役さんフォロー・シーンがあって、いよいよブリュンヒルデが素の顔で出てきたところで客電が点いて、もはや、お芝居ではなく、彼女の観客への演説会で、台詞に頻出する「あなた」という人称を、そっくりそのままお客さんに語りかける風に「読み替え」してるんだな、とわかってくるわけですが、

その設定が安定するまでの、ブリュンヒルデが奥から出てきて一挙に場の主役になってしまう流れを観ながら、なるほど、この人が「喪主」なのか、と思ったのでした。夫が死んだ葬式は、妻を中心に動く。これは誰も逆らうことなどできない。そういうもの(だということを私も今年になって知った)。収まるところに全部が収まった感じがしました。

最後は幕が閉まってしまって、長い長いト書きが映し出されるだけになることで知られる舞台ですけれど、ちゃんとオーケストラが演奏しているので、ラジオに音が詰め込まれてしまう「マクベス」に比べたら全然普通じゃないか、と思うのは、感覚が麻痺してしまったダメな感想でしょうか……。

「台詞や音楽は長持ちする(今でも伝わる)けれど、ト書きは賞味期限が短く、百年以上前のト書きをそのままやっても効果がない」はコンヴィチュニーの口癖のようで、演出家とはオペラ制作チームの中の「ト書き処理斑」みたいなもの。だとすれば、ワーグナーという男がこんなに素晴らしい音楽にこんなめんどくさいト書きを添えていた、を暴露するのは、極北感のある行為になるのでしょうが、

でも、そんな難しい話をしなくても、最初から根気よく通して映像を観たらブリュンヒルデが素晴らしすぎて、彼女が大演説をやって退場したんだから、もうおしまい、エンドロール、ということで尺はこれで丁度良いように思いました。

生身の人間が絵画のポーズを模倣する活人画というのがありますが、生身の人間が四角い舞台の上で映画を上映してみせる活人映画、しかも、ジャンルとしては、ブリュンヒルデの物語、女性映画なんでしょうね。そして女性映画は、たいてい酷い男に尽くす女性を描く。そういう骨組みの話なのに男性ファンが多いところがワーグナーの妙なところなのかも……。

(そういえば、昔は「無調は音楽じゃない」とアレルギー反応を起こす人がいた(しかもちゃんとアレルギー反応を起こすことが「良き教養」とされていた)と言われていますが、音楽好きを自認する方が、ある種の領域へ踏み込まれてしまったときに巻き起こす過剰な感じの反応は、ちょっとそれに似ているかもしれませんね。

もはや「調性」は、侵すべからざるもの、とは思われてはいなくて、「春の祭典」も「ヴォツェック」も「イオニザシオン」も大丈夫なのだけれど、それでもやっぱり、「音楽」という侵すべからざる聖域というものは厳然とあって、オペラの演出家は、その「音楽」という聖域を侵さない範囲でやらなければいけない、とか。面白いものですね。トネリコの木は、柵で囲って立ち入り禁止にしたら枯れずに済むのか? やんごとなきものを御簾の奥に守るのと、遠くまで地続きに広がっているフィールドで争うのと、「政治」も色々。)