暗転考

劇場の舞台の照明を落としたり、幕を一度おろしたりする転換をどう考えるか?

たぶんコンサートの拍手問題と同じかそれ以上に話題が広がる案件で、なぜかというと、コンサートの拍手同様、場面転換は、劇場体験がコンテンツ消費「ではない」ことを思い出させる特異点だからだと思う。

(音盤には拍手がないように、劇場中継は、DVDにすると場面転換中の緩い時間が通常スキップされる。)

本気で書くと絶対長くなるので、とりあえず、二つだけ書いておくと、

  • (1) トラディショナルなセットを組んで場面転換で「間」があくと不機嫌になるお客さん(しばしば「先生」クラスの偉い人)というのがいて、わたしは、そういうのが嫌いだったりする。いいじゃん、と思う。(たぶんそういう人は、スピード・効率化が進歩だという思いこみに縛られている。)
  • (2) 最近やや中毒気味に気になってしまうコンヴィチュニー(昨日もスカラ座の「アイーダ」を観ながら、旧フェスで観たコンヴィチュニーの演出よかったよなあ、とつい思い出してしまった、ちょっと入れ込みすぎ)の「魔笛」は、第1幕のほうをノンストップになるように作って(前の場が終わるところで次の場の人間が入ってくる)、第2幕のほうは、予め幕をリハーサル室に用意しておいて、何カ所か場の転換で「間」を空けていた。「マクベス」も、たしか、転換で進行が止まるところを作ってましたよね。「アイーダ」はどうだったかな? (で、他は、と詮索しようとしても、DVDだとわからない、推測するしかなくなるんですよね……。)

おそらく、大事なことは、

  • 「間」を空けて、お客さんが「素」に戻る時間を作ることは、決して忌み嫌うべき「悪」ではなく、それもまた劇場体験の要素のひとつとして「使える」(コンヴィチュニーの「ドン・カルロス」では休憩中にスペイン国王ご一行様がテレビ中継スタッフを引き連れて外から自動車で劇場に乗り付けた!)
  • だから、転換を入れるか入れないか、コントロールすればいいだけのことではないか(そして実際の劇場では、お客さんに見えない舞台裏で無線とかで連絡とりながらスタッフが休憩時間を管理してるわけだから、休み時間を休み時間としてお客様に提供しつつ管理するのは、劇場において何ら突飛な発想ではない)

といういうことだと思う。暗転、恐るるに足らず。転換の「間」を、「放送事故」(ってホントに誰かが困るのか、そこも考え直す必要がありはしないかと思いもするが)なるものを忌み嫌う他のメディア等と劇場を混同してはいけない。

拍手問題と似てるでしょ。

で、今回の「ワルキューレ」は……と言い出すと仕事ができなくなるので、とりあえず、ここまで。

あと、音楽が拍手問題をいつまでもグジグジ引きずっているのに比べると、劇場・芝居の人たちには、暗転or転換について、もうちょっと議論の蓄積がありそうな気がする。(なんといっても20世紀の演劇は異化効果のメッカだし。)

そっちを調べると、意外な方向から拍手問題に別の切り口・語り方をもたらす可能性があるかも。

そういう意味でも、音楽は文学・演劇と手を切ってはいけない気がする。