週末のあれこれ

井上道義・大阪フィルの「青ひげ公の城」は、冒頭の道化(台詞は違うけれどオリジナル台本にちゃんと存在する)が「ハンガリーの冬の夜は長い、しかも暗い暗い石の城のなか……」と言ったときに、ああ、そこは大事だな、と思った。

東ヨーロッパというと、私も行ったことがないので「東なんだ」と思ってしまうのですが、緯度は北海道よりずっと「北」で、大陸の真ん中に平原が広がって、自然環境は厳しそうですもんね。そんなところに頑丈な城を構えて、7つの部屋に色んなものを抱えてる領主の話だと思うと、容易に感情移入できない人たちの話だな、と改めて考え直したくなってきます。

そんな「城に籠もる男」の話を、池袋に東京都が建造した城塞であるところの東京芸術劇場(先頃リニューアルと伝え聞く)と、堂島に朝日新聞が作り上げたメディアの要塞フェスティバルタワーのフェスティバルホール(新装オープン)で上演したのは、日比谷公会堂でショスタコーヴィチ、とか、コンサートのロケーションと選曲をセットで考える井上道義のことだから、偶然ではないだろうと今頃になって気がつきました。

どちらもビルというより「塔」という感じの建物で、長いエスカレーターが特徴だったりするし……。

(歌った2人は、そういう往年のハンガリーの貴族やインテリの世界を演じているというよりも、もうちょっと話が通じそうな感じがしましたが。)

で、改めてバルトークについては、何が知りたいかといって、ちゃんとした伝記が読みたいです。

晩年の秘書の視点とか、息子の視点とか、7つの扉を閉じたままで語られる回想みたいのはあって、それはそれで面白いのですが、ユーディットのように、「すべての扉の鍵をちょうだい」と言いたくなってしまいます。

遺族(実子世代)が健在なあいだは、なかなか難しいのでしょうか?

父・バルトーク 〜息子による大作曲家の思い出

父・バルトーク 〜息子による大作曲家の思い出

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土曜日は川西でベッリーニ「カプレーティとモンテッキ」。シェークスピアの筋立て(これにもとづくグノーの「ロメジュリ」も月のはじめに堺シティ・オペラが上演した)よりも、こっちのほうが物語が圧縮されて舞台向きで、しかも、学生がやるようにアリアだけを取り出すのではなく、物語のなかで見ると、大掛かりな独唱をドラマに組み込もうとしているのがわかって面白い。「シェーナ→カンタービレ→カバレッタ」と大掛かりに畳みかけていく大アリアは、ただ単に主役歌手の個人技をひけらかすというよりも、間に対話や芝居をはさんで、それをバネにして次の部分へ移行する、というように、アリアをドラマへ組み込む動きとワンセットだと考えたほうがよさそうですね。

そうしているうちに、ヴェルディの「椿姫」第1幕のように、ヒロインが最初から舞台の上にいるのになかなかソロで歌わなくて、パーティの客もアルフレードもいなくなった幕切れにようやく「E strano! ....」と歌い出す不思議な構成の作品が生まれる。

ロッシーニやドニゼッティ、ベッリーニは、18世紀の主役がソロで歌いはじめると、さっと道を開けるみたいに誰も行く手を阻むことができなかった時代と、ヴェルディ以後のすべての役を臨機応変にドラマに組み込んで構成されたオペラの中間、蝶番の位置にいるのかな、と思います。そしてこれは、18世紀の他と入れ替え不可能な存在であるカストラートが君臨した時代から、普通の男と普通の女が入り乱れて(カストラートの禁止は革命の英雄ナポレオンの命令だと言われている[要出典??])、その分、メゾがソプラノから分かれたり、バリトンがバスから分かれて、ときには主役を張ったりするように声のキャラクターが細分化される時代への転換でもある。

で、これは、小岩信治さんが論じていらっしゃったような器楽のコンチェルトの変化。18世紀以来の定型化されたトゥッティとソロの交替から、それを踏まえつつ展開部などに様々なアイデアを盛り込む「ポスト・ベートーヴェン時代」を経て、「傾聴されるコンチェルト=独奏をともなうシンフォニー」へとピアノ協奏曲が移り変わるのと平行しているように思えます。

ベッリーニやドニゼッティの時代は、歌の技術は極端に高度になっているけれども、あくまで従来の様式の延長と認識されていて、同時代的には、芝居のできる歌手が出てきたことが重要だったようで、これもまた、ピアノ協奏曲における「ポスト・ベートーヴェン時代」の楽器や奏法が、極端に高度ではあるけれども18世紀から連続しているところがあるのと似ているかもしれません。

ロッシーニ・リバイバルのおかげで、ベッリーニやドニゼッティをグロテスクでなく上演する道が開けて、わたくしが個人的に一番好きな時代の音楽を色々楽しめるようになっている最近の傾向は率直に嬉しいことでございます。

私は、「秘密クラブ」に立てこもるような爛熟した大ブルジョワではなく、まだ貴族に頭が上がらなかったかもしれないけれども、啓蒙とか勤勉の残り香のある良識ある成金が好きだ(笑)。

イタリア・オペラ史

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ピアノ協奏曲の誕生 19世紀ヴィルトゥオーソ音楽史

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日曜は、フェニックスホールでパーカッションの「中村功と仲間たち」。

このホールが最初から続けてきたワールド・ミュージックとしての/のなかのクラシック音楽、という視点が一番色濃く残っているシリーズで、今回もインド発祥のハンド・ドラムとアフリカ発祥のマリンバがそれぞれに地球をぐるっと一周する構図に、インド・イスラム系の変拍子と、アフリカ・南米系のポリリズムの話を絡めて、大変面白かったのですが(大阪のおっさん中村功と、素敵すぎる神谷百子様の対照は何なのか(笑))、

このシリーズは5回目になる次回(2015年開催予定)で終了なのだそうです。

西洋の「打楽器」というのは変な概念で、結局のところ、オーケストラの標準以外の楽器は全部、打楽器奏者が担当しているのが実情で、つまりは「その他すべて」の意味でしかないんですよね。前にも書きましたが。

中村功さんが、その「その他すべて」の広い世界から色々なトピックを拾ってくるのが面白いわけで、そういう刺激的な場になっているのだということをご存じなかった方は、次回をお忘れなく(=勝手にステマだが、私もいちおう大学の吹奏楽ではパーカッション担当だったのです)。

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ということで、ウィーンや京都には「秘密クラブ」があるか知らんけど、それは口の堅い人たちでこっそりやってくれたらいいんで、他人にいいふらかして見せびらかしたら台無しやオヘンか。

凡人は普通に広告を打ってる演奏会で十分。行ったら何か面白い発見のひとつやふたつは、あるもんです。