邦楽に関心をもつのは結構なことだと思うけれど、モーツァルトが「シンプル」というのはどういう聴き方なのか、と首を捻る。
オール・モーツァルトで2時間のコンサートとか、びっしり隙間のないおしゃべりに付き合っているかのようで、私はすごく疲れるから、あまり嬉しくない。
ひょっとして、「音楽」としての情報量の話ではなく、物理的な音の数のことを言っているのか? 単位当たりの音密度が一定の数値を超えた音楽は、自分の耳/脳の許容量を超えて受けつけない、とか。
だとしたらそれは、音楽の側の問題ではなく、聴く側の脳内メモリのスペックが低い、とか、私の耳は解像度が低くて、どれだけたくさん音が鳴っていても、音響を音に分解できる同時発音数の上限は4個、聴覚センサーのクロック価は1/10秒、ダイナミクスはp以下、p、mpとmfは中くらいと一括、f、f以上の5段階評価で、カラーは白(音がない)と黒(音がある)の二値、それより多くの音、細かく分割・差異化された音響は縮約・フィルタリングして受容するので、私にとっては、やるだけ無駄です、私は鈍いんです、という話になりかねないわけだが……。(それだと、小菅優クラスのピアノ演奏とかでは、ものすごくたくさん「取りこぼし」が発生するに違いないし……。)
つまりそれは、音楽がシンプルなのではなく、聴く側の「耳」が……。ノートパソコンのスピーカーでYouTubeばっかり聴いて、耳に養分がゆきわたっていないのではないだろうか。
鳴り響く墨絵の美学、というのは、確かにあるとは思うし、黎明期PCのBeep音の世界とかも、文脈の作り方によっては奥深いですけれども、日本音楽ってホントにそーゆーものだろうか?
そこで何が起きているか、耳が何を受け止めたか、という外界の都合はおかまいなしに、脳が疲れて楽をしたいのか知らないけれども物の言い方を「シンプル」にしようとして、ミソもクソも一緒くたになっている気がする。
事実としてモーツァルトは「シンプル」ではない。「フィガロ」の終幕とか、イカれた男の書いた楽譜だとしか思えない。話はそこからだ。