巡業と常設

ヨーロッパの音楽は、楽譜を流通させるようになったことで決定的に「ポータブル」(いつでもどこでも同じもの)の領域に足を踏み入れたわけで、いわゆる複製技術(録音とか)というのも、技術としては新しいけれど、枠組みとしてはそれほど無理なく導入できる。そんなに目を向いて驚くことではない。

でも、「そのときその場」でなければできない面をどんどん希薄化させているかというとそうでもなくて、「オペラ」とか「シンフォニー」というのは、できた頃の常識・条件では、それぞれの宮廷や都市が自前でやるしかないことだったわけですね。

教会という広域ネットワークな宗教組織の建物の中心に、オルガンが建物と一体化した形で埋め込まれているのは、なんとも興味深いことかもしれなくて、たいていの領域は両方を混ぜ合わせる形になってます。

エッゲブレヒトは、合理的でポータブルな「形式」に、非合理的な「感情」を注ぎ込む、という発想が西欧音楽のアルファでありオメガである、という、ほとんど確信犯的なイデオロギーをむき出しにして「理念としての西欧音楽」の歴史を書いたりしています。

Musik im Abendland: Prozesse und Stationen vom Mittelalter bis zur Gegenwart

Musik im Abendland: Prozesse und Stationen vom Mittelalter bis zur Gegenwart

ヴィルトゥオーソという「その人にしかないもの」オーラ全開の人々が巡業中心で活動して、それぞれの街のオーケストラが「シンフォニー」という標準化されたポータブルなフォーマットのジャンルに取り組む、という形で両者がクロスしたのが、ヨーロッパ音楽文化の黄金時代としての19世紀であった、などという「神話」を語ることができたりするのかもしれません。

      • -

身近な概念に落とし込めば、巡業と常設ですね。同じ人・演目で各地を回るのと、そこへいけばこれがある、というやつです。

この先しばらく、

(a) 巡業(とマッシュアップ)に限りなく常設に近い外観を与える動きと、(b) 常設の「そのときその場」に遠来からの客人や「世界の趨勢」をどこまで組み込めるかを工夫する動き、両者が対立軸としてくっきり浮かび上がる情勢になりそうな気がします。まあ、いってみれば、連続完売記録更新中であるらしい京響的なものと、今一番ホットな客人が来訪するとされる「いずみホール」的なもの、ですね。後者の新シリーズ開幕に前者が出るのだから、実にうまく「お話」ができておる。

昔からあることで、そういうもんだという風に区別を忘れていたというか、そういう区別とは別のところに話題や焦点が当たっていたのが、これからしばらくは、このあたりの分かれ目とか、それぞれのあり方を踏まえた得失とかが、表だった話題になりそうな予感がある。

人事(どの音楽家がどこと契約するか)や集客(どこがどういう風にお客さんを呼び込むか)の入れ替えや予定が出揃ったところで、浮かび上がってきたポイントはここだったのか、みたいな感じがしております。

……という未来予測は、はたして遂行的予言になるか?!

別に音楽は二大政党制じゃないんで、どちらか一方の一人勝ち・総取りには、たぶん、ならない。その種の「独占狙い」な呼び込みフィーバーが一段落した先の分布・景色がどうなっているか、でしょうね。

(ついでに言っておくと、ヒョーロンカは通常、街に「居着く」ので(b)と相性が良く、アーチストを追って巡業する(a)タイプはジャーナリストに接近していく。

あと、吹奏楽は、街の連隊の楽隊だったりして、かつては(b)の常設タイプ、「市民の憩い」だったのだけれど、少なくとも我が日本国では、関係者・団体・業界の努力で、全国共通標準化されて世界へ広がる(a)タイプの感性を育む傾向が強い。

その上で、誰かがどこかのタイミングで両方を混ぜないと、いまいち面白くならないところが音楽にはあって、未来予測的には、興行主様が(a)タイプ、(b)タイプにかっきり分かれる傾向を強めて、そのうえで、お客さんの側が適宜チョイスすることで、両者を混ぜて楽しむ感じになるんじゃないですかね。

そしてこういう未来予測の成否は、「宣伝・囲い込み」がその種の自由なチョイスを難しくしちゃう世の中になるのか、上手な振る舞いで自由選択の余地を残す設計な世の中が営まれるのか、にかかっているような気がします。20世紀はメディア論/プロパガンダの時代だったけれど、21世紀前半もそれが続くのかどうか問題、ですな。)