○×式がダメなら、○×△の三択にすればいいじゃない

サウンドとメディアの文化資源学: 境界線上の音楽

サウンドとメディアの文化資源学: 境界線上の音楽

境界線上を指さす、という論法は、そういう風に対応されて終わりだと思うんだよね。

「聴覚文化」という言葉は、音楽vs音楽じゃないただの音、という二分法を一度チャラにして考え直そうという含みをもっており、その背景には、正誤判断(いわば○×式)が通用しない領域に、無理矢理、擬似的に正誤判断を持ち込むことへの違和感があり、そのような違和感を喚起することで人を惹きつけようとする戦略のはずなのだけれども、

でも、正誤判断でないなら何なのか、という疑問に正面から答える勇気や準備、そのような領域へ人を誘い入れた先で何が起きるかについての見通しはないから、

それで、とりあえず○と×の境界線上をひたすらなぞる。

たぶん、役人が○×を○×△に書式変更してくれたら、それで、手を打とう、という話なのだと思う。

役人は、ルールを改正して、新しいルールを迅速かつ確実に実行するとか、そういうのは、それこそが仕事だから上手だしね。急にルールが改正されて、右往左往して困るのは一般ユーザーだけど、それは知らん、というわけだ。

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本書で、擬似的な正誤判断(○×式)のことが、規範意識、みたいな言葉で言われているわけだけれど、じゃあ何がそのような規範を支えているか、というところが、本書では微妙にぼかされている。

紙幣をめぐる妙な比喩が出てくるように、権力によって維持される、というモデルを想定しているらしいのだけれど、こと音楽の話になると、規範は西洋近代をモデルにしたことで日本に入ったことになっていて、いわば、日本をまるごと免責する耳障りのいい話で終わる。日本の統治機構のなかに、規範を維持する部署はないかのようだ。

そうじゃなくて、こういう風に、実際にはありもしない規範とか正しさを、自分ではこれが正しいとか、これが規範だ、とか断言することなしに、あたかも、それがあるかのように思わせるレトリック(だけ)があるのだと思う。

外国ではこうだ、とか、このやり方では上手くいかないですよね、とか、間接的に外堀をどんどん埋めていくことで、事実上、あたかも、規範とか正しさとかが、あるかのように振る舞わなければしょうがないようなところへ持っていくわけ。そして、既に存在する規範とか正しさとかを更新するのが我々の務めだ、と、自分ではなく相手に言わせよう、言わせよう、と誘導するわけです。

戦後日本の聴覚文化: 音楽・物語・身体

戦後日本の聴覚文化: 音楽・物語・身体

翻訳者の役割とか、作家が体験をいかに話に仕立てるか、とか、語る/物語る行為に着目しないと「戦後」が読み解けないのは、そのせいでもあると思う。
アメリカン・スクール (新潮文庫)

アメリカン・スクール (新潮文庫)

日本の戦後ポピュラー・カルチャーを語ろうとする者は、全員まずこれを読んで読書感想文を提出! そしてモヤモヤした気持ちになったところで、保坂和志の解説を読んで、「は」の用法を学ぶこと。

この本に注目すべきところがあるとしたら、序論が、このレトリックを当世風に展開している好例だ、ということだと思う。

ご苦労なことで。

(そういうことをやればやるほど、科研申請とか、そういう日々の書類がどんどんトラップの多い、書くのがめんどくさいものになる、とか、そういうことになるだけだろうに。まあ、そういう風にトラップが増えてくれたほうが、自分の子分だけ優遇するのが、やりやすくなるのかもしれないけど……。中世スコラ哲学が権威の大伽藍を築くときのやり方と、結局は同じことになってる気がします。

こういう風に書けば読書人を煙に巻くことができる、という技を磨くことよりも、学会本部なるものの機構や業務を透明化したり、日本における音楽学の研究史を可視化するために学会史編纂の道をつける、とか、会長には学会政治の実務を先に進めて欲しい。)