承前:いかにしてヨーロッパで「音楽家」になるか?

ちなみに、京都市交響楽団が1997年にヨーロッパ演奏旅行をやって以後、関西のオーケストラが本格的な海外ツアーに出たことは今日に至るまで一度もないはず。

このとき京響が行った先はプラハ、ウィーン、クラクフ、ザグレブ、テッサロニキ、いわゆる中東欧です。カツァリスはマルセイユ在住のギリシャ系キプロス人の子として生まれたのだから、縁のない話とは言えない。

京響は、井上・ムントの中東欧指向から、大友直人を挟んで、広上さんを招いて北米指向へシフトした、と見ることができると思います。

ということで、キリっとした女性への憧れと無縁な私は、淡々と前のエントリーの続きを書きますが、

「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?──人種・ジェンダー・文化資本

「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?──人種・ジェンダー・文化資本

この本の内容をより正確に書くと、

「アジア人」はいかにして“北米で”クラシック音楽家になったのか?

だと思います。実際、本書には、「アジア人」にとってだけではないと思いますが、ヨーロッパと北米は色々事情が違うというコメントが何度が出てきます。

そして具体的にどう違うか、は本書の範囲を超える。

「アジア人」はいかにして“ヨーロッパで”クラシック音楽家になったのか?

というテーマは、「北米編」が書かれた今、それと対比できる水準で語り直すと、単に個々の音楽家の評伝を書くのとは違う議論を展開できるのではないか?

そしてそこから、

「アジア人」はいかにしてクラシック音楽をサブ・カルチャーにしたか?

というテーマが、ネガのように浮かび上がってくるんじゃないか。それが、前のエントリー(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20131029/p5)のお話であり、あの話は、挑発的かもしれないけれども、別に誰かへの悪口とかで終わるような問題じゃないと思ってます。

本研究の意義:

この研究は、渡辺裕『聴衆の誕生』(1989年、春秋社←「キリッとした編集者」がいるらしい)が提示した議論を語り直す。渡辺の議論では、扱われている3つの時代と地域、すなわち、(1) 19世紀のヨーロッパのコンサート音楽、(2) 20世紀初頭の北米の音楽に関わる新しいメディアと技術、(3) 1980年代日本の音楽受容、三者の関係が明瞭ではなく、なぜ、この3つのトピックが同時に扱われねばならないのか、明確な説明がなされてはいなかった。この研究は、「音楽の国」という表象が、クラシック音楽に取り組もうとする日本人(アジア人)のアイデンティティ形成の過程で要請された想像的なものであると仮定し、上記(1)から(3)が、日本人音楽家のアイデンティティ形成において、「日本人音楽家=私」を3方向から照らす光源として機能する様を記述する。本研究は、渡辺裕の議論を、研究というよりむしろ、1980年代日本の音楽文化に対する同時代人の証言とみなし、その存立構造を解明する試みである。

しかるべき肩書きで在外研究の予算を取って調査するような「キリっとした」研究者じゃないと、扱いきれないテーマだろうし、キリっとした研究者は、こういうゴテゴテしたのじゃない、もっとキリっとした申請書類を書くんだろうけどね。