劇場のサイズ

大変残念なことに、その精妙な演技は3階の貧乏人席(それでも5桁)からでは、ほとんど認識できなかったです。再演だから芝居のディテールが摩滅していたのかな、と勘違いするほどで……。

(まだ公演は続くので、遠くの席の方には、歌手の表情がはっきりみえる強力な望遠鏡をお薦めしたほうがいいかもしれない。そんな大げさな機械は、作品・公演の性格にそぐわない気がするので痛し痒しですが……。)

もともとのフィンランドの劇場はどれくらいのサイズなのだろう……と調べたら、

The main auditorium seats 1,350[...]

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新国が約1800(1F: 868、2F:354、3F: 292、4F: 300)。びわ湖ホールとほぼ同じサイズ(東京文化会館ほどではない)だけれど、あそこのさらに上に天井桟敷が300席あるのか……むむむ。

モノは同じでも日本に移動したことで意味が変わっちゃう典型的なケースのような気がしたのですが……。

あと、舞台一面にちっちゃの植木が広がっていることや、芝居がエチュードであるかのようにベッドひとつを中心にして進むこと、それから、人間より背の高い物体が一切置かれていないこと(=観客の視線がヒトへ注がれるように配慮されていること)など、「あの人」に代表される欧州のその手のオペラ演出ではおなじみの特徴が散見されるわけですけれども、今回のは、全体として、あまりにも潔く「室内劇」過ぎるのではないかと思ったです。

大劇場でやっても大丈夫なドラマ上の「急所」がある演出じゃないですよね。そういうことに背を向けた心理劇、ということかとは思いますが、心理劇がメロドラマでないと言えるポイントは、どのあたりにあったのか。舞台上で展開するのがメロドラマなのだということになると、せっかく凝りに凝った音楽を書いたコルンゴルトがかわいそうですよね。

年間に様々な公演があるなかのひとつとして、今回は(「ドン・カルロ」などとは全く違う)室内劇的な繊細さのほうへ力点を置いた演目を用意する、そういう配慮はアリなのかも、とは思います。

リュートの歌の余韻があとを引くような幕切れなど、おそらく元来は、大見得を切らない繊細なドラマとしてとてもよくできていたから日本に持ってくることになったのだろうと想像することはできましたし、現地でオリジナルをご覧になった方にとっては存分にそのテイストをよみがえらせた公演になっている、という風に見ることができたのかもしれませんが……。でもやはり、民間が自分たちの好きなものについて、それを我々がいかに偏愛しているか、とアピールするような趣味性の高い公演ではないはずだと思うので、これを単体でこの場所で上演したことで何が生まれるか、の視点が要ると思ったです。

(もしコンヴィチュニーのような老練なじいさんだったら、たとえ小さな劇場でやる時であっても、必ずひとつ、あっと驚く仕掛けを入れますよね。それは、オペラのようなスペクタクル系の演劇ジャンルでは入れるのが基本だと思うし、敢えて入れないというのであれば、入れない理由が要る。それなしに、何もなしに終わったら、何かが欠けた演出へ分類されてもしかたがないのではないか。ベッドの真ん中に穴が空いて、そこから一座が沸いて出て、しかも長〜〜〜い櫂(ですよね)までもが出てきたのは、ここで勝負したのだと思いますけど、あの櫂は、もっと活用して芝居を膨らませることができるアイテムではなかったか。仮にコンヴィチュニーだったら、櫂で辺り一面のものをなぎ倒して、さらには、壁をめちゃくちゃにするカオスを出現させた気がする。で、めちゃくちゃにしたものをどこでどう片付けるか、と次へ考えを進めて、妻の幽霊さんの目覚ましい活躍のシーンを作るとか、あるいは、第3幕に入ってから、聖血の行列の合唱がメチャクチャになった部屋を修復する、とか、ということになっていったのではないか。

背景の、ブラインドの向こうの街(高所恐怖症の人にとっては心臓に悪いんじゃないかと思う大胆な俯瞰のアングル)も、パウルがそのキワキワに立ったりして、いかにも何かができそうだったのに、もっと大胆にお客さんをびっくりさせる使い方をしないと、もったいないのではないでしょうか。

そういうケレンを自粛するのが室内劇なのだということになると、だったら櫂の巨大さや、デフォルメした巨大なセットは、ますます説明がつかなくなるような……。

そして細かいことかもしれませんが、第1幕でブラインドを開いて照明がパッと変わる瞬間は、音楽との関係が本当にあのタイミングで良かったのか。また、各幕での緞帳の下り方やタイミングは、舞台上で動くものの少ないこの種のお芝居ではものすごく大事で、嫌でも意味をもってしまうと思うのですが、あれでよかったのだろうか。

そのあたりを含めて、主催公演というより、他所の劇団がここを間借りした客演っぽいなあ、と私は思いました。

できあがったものの好き嫌いはひとまず置いておくとして、演出の仕上げの丁寧さ、劇場としての一体感といった割合多くの人の間で見解が一致する可能性の高いポイントに絞って判断するとしたら、びわ湖と新国について、また違った比較があり得るのではないでしょうか。)