コピペは人間を万能にするか?

昔は、(といっても私たちの世代が学生の頃だからそれほど古い話ではないが)音楽大学というと金持ちしか行けないと言われていて、まあ実際いまでも子供の頃からレッスンを受けて……と考えると大変ではあるけれど、それに加えて、師匠のコンサートのときには弟子がチケットを引き受けるとか、授業以外に先生が自宅で個人レッスンをする(そうすると授業ではないので別途レッスン料が発生する)というようなことで、表に現れない負担が様々にあったと言われている。

そして今ここで「昔はそうだった(らしい)」と書けるのは、私が知る限り、現在では、大学としてそういうことを止めようという徹底した取り組みがあって、今はできなくなっているし、それどころか、授業以外で教員が学生に何かを依頼するときには、必ず所定の手順を踏まなければいけない形になっている(らしい)からです。

たとえばぶっちゃけ、学生に演奏を頼んだらギャラを節約できるかも、みたいな発想でコンサートを企画するのは、現在ではほぼ不可能です。(ここまでの文章で「らしい」を連発しているのは、私が実技の教員じゃないし、音大の卒業生でもないので、すべては伝聞だからですが、学生に演奏を頼むとどうなるのかな、というのは、以前、実際に調べたことがあるので、「らしい」なしに事実として書ける。)もちろん、学生が学外で自主的に何かを手弁当で企画するのはむしろ推奨されることのようですが。

何が言いたいかというと、これはマズイ、と考えて取り組んだら、変わるものは変わりうるらしい、教育というややこしい場であっても、ということです。(あるいはむしろ、人を育てる場であるからこそ、正すべきは正さねば、ということでしょうか。)

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ちょっと偽悪的でインパクトがあるから、「コピペ」という言葉を使うのがネットの流儀になっているみたいですが、本や資料はどんどん探せばいいわけで、見つけた使えるテクストは、所定の作法で「引用」として処理すればいいんじゃないかと思う。

「コピペ」より「引用」のほうがトクだ、というインセンティヴがないと人はそっちへ移行しないのであれば、レポート課題を出すときに、一種の練習として、

「○○について書け。その際、少なくとも10以上の引用を文中に含むこと」

とか、したらいかんのだろうか。

文として意味が通らないものは×。

意味が通る作文については、引用の作法が適切か否かのみチェックして、引用の数に応じて加点。

で、その延長で作る論文は、口頭試問のときにそこで引用されている文献に関連する質疑があることを周知しておいて、質問に満足に答えることができなかったときには(=「こいつ写経しただけで、実際には読んでないじゃん」とバレたときには)、適宜減点。

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まあ、実はこれは、引用に関わるポイントを強調して明文化しただけで、元来の論文書きとか、口頭試問というのは、そーゆーもので、正統・王道な話だと思います。

大きな流れとしては、そういう方向へ物事が進まなあかんよな、ということすら理解していない大学関係者はさすがにそれほど多くないはずで、すぐには実現できない事情とかがあって、それでどこで妥協するか、大なり小なり粗密がある、ということじゃないのだろうか。

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レポートの書き方、論文作法のたぐいの本で、引用や文献参照のやりかたにかなりの紙数が割かれているのを見て、

「実態は盗作・剽窃やりほうだいな世界なので、罪悪感の裏返しでそこを力説しないといけなくなってるんだ」

みたいに偽悪的に考えるのはちょっと野蛮すぎる極論で、引用や文献参照は、習得して使いこなすにはそれなりの時間とスキルが要るから、そこで苦労した経験をもとに、執筆者が力を入れて説明するのだと思う。

で、習得してしまえば、ビクビクしながらコピペするより、むしろ話がスムーズで、メリットは多いはず。この点に関しては、啓蒙が「悪」へ反転して「腐食」する手前でベタに役立つ範囲がまだたくさんあると思います。あまり話を面白くしすぎないほうがいい気がする。

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だから、たぶんこれは、

ソーシャル化する音楽 「聴取」から「遊び」へ

ソーシャル化する音楽 「聴取」から「遊び」へ

音楽のガジェット化で、分解・変身・合体が流行っている等々、という話の流れのなかに出てくるパクリやオマージュとは、なるほど現象としては似ているけれど、脈絡が違うところがあるのだと思う。

アナロジーとかパラフレーズとか、似たものへ横滑りするのは思惟の強力な武器ではあるが、「似て非なるもの」を分ける作業=分析・分解とセットにしないと、危険が大きい。

他人のそら似ということもあるし、似ているけれどもちょっと違う事柄をごっちゃにしない力をつけないと、単体としてはそれぞれ面白い現象、便利な「わざ」であっても、混ぜたがゆえに共倒れしてしまうかもしれない。それは実に勿体ない。

双子の美人姉妹のお姉ちゃんのつもりで妹にプロポーズしたら、ヤバいよね。(実は妹のほうがキミにぞっこんで、結果オーライ、となるかもしれないから人生は面白いのかもしれないけれど……って何の話だ。そしてその妹が、キミの勘違いを利用して「姉」を演じ続けるところから数奇な物語が始まるか? 分析哲学はこの種の仮定が好きそうだし、日本から見ると中西部のだだっぴろいところで雑な人生を送っているヤンキーのぶっ飛んだ発想と見える面がなくはないかもしれないし、実際それも多少はありそうだけれど、この種の突き抜けた発想の基本エンジンは数学じゃないのかなあ。二乗してマイナスになる数を設定する、そして虚数の数直線が実数と直交するグラフを作図するとアラ不思議、みたいな。そこにいきなり「文学」を感じて高揚するのは、いかがなものか。

また、近代西洋の数学は、先人の業績を組み合わせて、そこに接ぎ木しながら次へ進んでいく様子が素通しで見えるように組み立てられているみたいなので、引用の意義をデモンストレートする良い実例でもあるかもしれない。)

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考えてみれば、ここ、結構大事そうですね。

私のやること・考えることと、他の誰かのやること・考えることが似てしまったときにどうするか、という話なわけだ。

そのときに、他人であるこの人の意見は私の意見、私の意見は他人であるこの人の意見とまったく一緒。互換性100%、混じりけなし!ということにしちゃうと、コピペ、パクリへ何の罪悪感もなしに突き進むことができそうではあるけれど、ホントに同じなのか、違いがどこかにありはしないかと精査するところから分解・分離・分析が始まる(ような気がする)。

そうして、そんな風に、どこかで私とあなた、自分と他人を分ける作業行程が必要になるんだったら、最初っから、本を読むときには、常に、「わかるぅ」と共感して対象と合体・シンクロすることを目指すのではなく、使える/使えない、自分の意見とここが一緒、ここは違う、とリストアップするつもりで臨むほうが話は早い、ということになる。

高等教育が人をパクリから引用の文化へ移行させようとするのは、人工的ではあるけれども汎用性のある人間関係を構築しようとしているのだと思う。で、そういう風に、対象や他者との「差異と同一性」の意識を自分のなかにインストールするのが嫌だ、わたしはあなた、あなたはわたし、という世界に生き続けたい、という人は、申し訳ないけれども、頭の善し悪しとは別問題として、大学に向いてないのかもしれない。

別に、そういう人がいてもいい、というか、世の中にはいろんなひとがいたほうがいいのだと思うけれど、でも、あなたはわたし、わたしはあなた、という集合意識を前提とする活動が大学制度や研究活動として全面的に肯定される可能性は、STAP細胞の実在可能性より、現状ではさらに低い……ですよね。コピペvs引用は、たぶんそういう話だと思う。

あなたはわたし、わたしはあなた、の状態のままであることによって見いだされるかもしれない真理を遂行する場をどこかに創設するのは自由だけれども、大学内でそれをやると、おそらくいつか、そのような「解放区」はツブされる……。「学問の自由」という理念や「学問という作法」は、たぶんそこまで「万能」に何でもかんでも生成できるわけではない(と思うのですよ)。

オカルトや神秘主義とキワキワのことを夢想するタイプの人をも抱え込むことで多様性を確保するギリギリの「世界の果て」な感じを大学や学問がもっているのは確かだけれど、本当に「あっちの世界」へ行ってしまうのは、たぶんマズいのでしょう。人間は矮小で凡庸で有限。それが「正しい」ことなのかどうか確証はないけれど、とりあえず今は、学問をひとまず宗教や政治・イデオロギーと区別する制度になっていて、コピペ解禁とか言い出すと、かなり根本的なところで制度が揺れる。そこを突くのは、今の本題じゃなさそうに思う。(あの人やその関連団体のやったことを「既存の制度」がどう判断するか、が問われているわけで、もし仮に「新しい制度」を構想するとしても、はたして、それが彼らを容認する形になるかどうか……。)知的探究として「コピペの創造性」を追いかけるのと、今ある制度の下でどの行為をセーフ/アウトと線引きするのが適切か、という話は、ごっちゃにしないほうが安全、と思う。

「コピペの創造性」を専攻している学者がそのあたりをバシっと解説してくれると、シロウトは安心できると思うんやけど。性産業の研究者が、セックスワーカーの人権の問題と、性産業を成立させているジェンダー問題を分けて語るみたいに、うまいこと整理でけへんのやろか。