「止むに止まれぬ」感じの処方箋

今は同志社の根岸先生は、どこぞの足腰の立たないドン・キホーテと違って、記憶違いでなければ1回目か2回目から聴いてらっしゃるはずです。

常識的には、(再現・追試のできない段階での「製造法」の一方的な主張が自然科学で本気にされないのと同じで)こういうものは8回全部終わってから評価するのが筋であろうかと思いますが、選考委員の顔ぶれを見ると、宣伝めいた業界の策謀が渦巻いているというよりは、常識を敢えて踏み越えるリスクを取ってでも、ある種の旗を立てた方がいい、という感じがあるのかなあ、と思いました。誰が誰を推したのか「票読み」は私にはできないし、出てきた結果についての印象論ではありますが。

(こういうのを鬼の首とったみたいな宣伝材料にすると、ピンクの研究室に割烹着、みたいな煽りと同じことになっちゃうから、あと2回、上手に進めて、せっかくの朗報を台無しにしないでネ。)

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業界というか仲間内でヒトと情報がグルグル回って、バズワードとしての「期待の新星」とか「本格派」とか「不世出の天才」とかが飛び交うのは、現象としては昔から興行はそういうものであるにしても、そして別に反資本主義経済な革命シンパなどではない者から見ても、そういうのがあまりにも短絡的に短期決算の健全化みたいなところと結びついちゃう形だと、興行が薄っぺらになりすぎて、ヤバイだろう、という風に思うわけじゃないですか。それでは、あまりにもぶっちゃけてデフレっぽすぎる感じがする。やせ我慢とか、見栄とか、優雅に上品な応対とか、そーいうのはないんか、と。

こういうときに、「売れっ子」にホイホイ賞を出す、みたいなことになったら、もうホントに歯止めなしですよね。

ちょうど、新国の「死の都」が、ベストな座席から見たら無上に幸福な夢の実現に見えるかもしれないけれども、あの強烈に遠近法的な装置といい、演技スタイルといい、照明頼みな効果を多用するところといい、ちょっとでもズレたら効果が失われるピンポイント・薄氷の最新3Dみたいなところがあったわけじゃないですか。ひとつのやり方ではあるけれど、そんな狭いアングルだけを狙うのは、ちょっと危険すぎるやろう、とやっぱり思う。

詐欺師さんとか、とりあえず最短で階段を駆け上がる嗅覚に優れた個体とかにとって、こういう風に一方向へ偏りすぎている業界は、ズルをする近道を見つけ易いから格好のターゲットになり、だから現代のベートーヴェンが出現したり、そういうことも起きるんでしょう。

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たぶん表演者自身、つまり、油断するとどんどん神輿としてかつがれちゃう側のご本人たちが、ヤバさを一番よーわかってるんだろうと思うんですよ。

「え、小菅優がベートーヴェンのソナチネ弾くの?」とか「小曽根真がラフマニノフ?」[さすがにこれはラフマよりガーシュウィンのほうが良かったとは思うが]とか、有名人を、その人を有名にしているのとは違うアングル、ポイントから誉める作戦は、別にそれほど目新しい特効薬ではない。むしろ、ありふれた「球種」だし、そんなありふれた球種が効果的に決まってしまうのは、詐欺師が楽々と商売ができてしまうのと同じ「うすっぺらさ」の症状だとは思いますが、まずはそこから、なのでしょう。

栄養が不足がちでやせっぽちになっちゃったヒトが体力回復するときは、まず、何からはじめたらいいか。「健康優良児で何の問題もありません」と太鼓判を押せる状態ではないのだろうけれど、ひとまず、ベーシックな臨床・処方が出たな、という感じがします。あんまりしゃかりきにならずに、のんびり転地療養はいかがですか、みたいな感じ。

(たとえば、「全聾の不屈の作曲家」の記者会見でいかにも怪しいと出席した記者さんたちが思ったとして、それでも既に紙面が確保されていて短期間に記事を出さないといけないとしたら、ひとまずそこではなく「被爆二世」の物語の変化球へ逃げてしのぐのは、おおむね「アリ」でしょう。その人の音楽家としての資質、音楽の内実について突っ込まないで済むし、そこを実際にコンサートを聴いた人の判断にゆだねるのは、結果として問題の発覚を遅らせはしたけれど、その時点でのチョイスとしては決して悪くないと思えたはず。経験を積んだ記者さんたちは、たぶん、そうやって日々を乗りこなしていくわけですよね。

今動きつつある事態のなかにいるときは、常に最強・ベストの決定打が出せるわけではなく、即決できないけれども最悪ではない対応を重ねながら見守るしかないことがある。まだ8回中6回の段階で賞が出るのは、「2010年段階のサムラゴーチ」と比較するのは失礼だと承知してはおりますが、未定・未決部分を残した状態でそれでも何らかの判断を下さねばならなかったんだろう点で、大きな間違いがこの先に起きることはないだろうとは思うけれど、ちょっと似たところがあるように思います。なんとかあと2回無事にやりおおせてくれ、と祈るばかりですね。

(一方、「その後のサムラゴーチ」や「都の西北的論文作法」の達人さんは、そんな周囲のオトナの対応をぶっちぎる困った人で、ますます事業拡大しちゃったわけだが、2010年段階で一介の現場記者に、サムラゴーチの真相を見破り、阻止することを期待するのは無茶ですよね。(むしろブームに乗るのでなく、その胎動段階で記事を成立させるのは、一定以上の力量のある記者でなければできないことで、記事を書いた人は、ちゃんと仕事ができる人だったのだと思う。実際の顔ぶれを見てもそうだ。)脚光を浴びる前にシツコイほどに事前審査をすべきだといったって限界がある。問題は耳目を集めたそのあとであり、だからこそ、「有名であること/有名になったこと/名声が上がったこと(賞や勲章はその一種)」イコール「実力」と思うのは、いかなる場合においても危ない。それまでの取り組みが立派だったとしても、これからのことは、実際になってみないとわからない。))

*平成25年度(第64回)芸術選奨文部科学大臣賞及び同新人賞の決定について → http://www.bunka.go.jp/ima/press_release/pdf/geijutsusensho_140313.pdf

(評論で四方田犬彦って、何なんだろうと思ったりはするけれど。)