音楽の存在意義、音楽研究の大義名分

大上段に構えた感じのタイトルでございます(笑)。

戦後、日本で音楽学会を創った先生たちは、ことあるごとに、そういうのを一生懸命言っていた気がするんですよ。説明の仕方は人それぞれであったにせよ、「……ゆえに音楽が研究されねばならぬのである」と大義名分を立てながら仕事をするのが音楽学者だったような気がする。

でも、今の40代くらいで大学で音楽研究をしている方々は、ほんま、そういう大義名分を言わんですよね。

むしろ一時期は、大義名分で研究をするのはダメなことなんだ、くらいの感じがあった。

そういう本質主義のトップダウンではなく、パンピー(一般ピープル)の日々の生態を見て、そこから話を積み上げろ、これからは、そういう風に研究の「間取り」を全部変えちゃいますから、あとは、俺たち私たちに任せてください、みたいのが、音楽研究における大学改革兼世代交代の内実だったのであろうかと思う。

でも、ボトムアップと言うと聞こえはいいけれど、実のところ、それは世間で音楽が好まれていたのが背景ですよね。

歌謡曲であれ洋楽ヒットチャートであれロックであれ、音楽が世間でよう売れとった時代だから、これだけ売れてるものについては、大学でそれを専門に研究する人間がいてもおかしくはなかろう、ということで、わざわざ大義名分を言わんでも通ってきたのでしょう。

オルタナティブロックの社会学

オルタナティブロックの社会学

しかしアレですね。

どうやら「おごれる者も……」と申しましょうか、今はもう、パンピーがそれほど音楽に特別な思い入れを持たなくなってきつつあるご時世であるらしく、そうなると、「パンピーの声」なんぞに耳を傾けてしまった日には、音楽なんてそれほど大事か?と詰問されそうな気配があって、さてどうしましょう、ということみたいですな。

かなり雑な感想だとは思うけれど、そういう日がもうとっくの昔に来ているのだとしたら、そら、何か考えなあかんよね。