適切な音の大きさ

ああ、この人たちは思っていたより、ずっと無頓着に音を楽しんでいて、それで話がかみ合わないんだな、ということがわかったので、もう、墜ちていく人たちはほっとけばいいか、と、半分以上どうでもよくなっているのだが、いちおう、書いておく。

マイクで個別に音を拾ってあとで好きなように調整した録音物なら話は別だが、ライブでナマの音を空間に響かせるときには、適切なバランスをリアルタイムに探しつづけなければいけないので、色々面倒なことが起きる。

しかも、クラシック音楽は複数の楽器が別々のことを同時にやっていて、なおかつ、それらがてんでばらばらではなくかみ合った状態にしないと、客席で聴いても何が何だかわからなくなるからやっかいなわけですよね。

そして一般論として、いかにも熱演という感じに音が空間に充満している状態は、ちょうどパソコンの画像編集でコントラストをめいっぱいにあげて絵の細部がつぶれてしまっているのに似て、別々のことをやっているはずの個々の楽器の音がひとつのかたまりになって響いてしまうので、クラシック音楽を聴き慣れた人は、こりゃたまらん、と思うことが多いわけです。

(それは、味の濃いファーストフードや濃厚とんこつラーメンに近いという言い方もできるかもしれない。)

そしてここで大事なことは、全体をひとつかみにしたときの音の大きい小さい(味の濃さ・薄さ)以上に、音楽の解像度で聴いた印象が変わってくる、ということだと思います。

メロディーパートが最初から最後まででっかい音で一様に演奏すれば、激辛料理が旨い不味いを超えて「辛さ」として記憶に刷り込まれるように、誰の耳にもその印象が強くたたき込まれるわけですが、そのメロディーのニュアンスや、他のパートとの絡み合いで生まれてくる立体感は消し飛んでしまいますよね。そしてそれじゃあ、伴奏パートがメロディーに負けずに大きな音で演奏すればいいか、というと、それではますます暑苦しくなる。

あるいは、ある特別な奏法を試そうとして、メロディーパートはこういう感じ、伴奏はこんな感じ、と弾き分けさせようとするときには、それらを組み合わせたときの相互の関係はどうなっていて、両者が関係しあうことで生まれる妙味がうまく伝わるようにバランス調整されているか、という課題が生まれる。

クラシック音楽は、そのあたりを工夫しないとうまく物事が進まないように曲が仕組んであるわけです。

で、これは(別に知性と教養とかということではないけれども)お客さんを試すゲームにもなっていて、いろいろな楽器が同時にいろんなことをやっていますから、そのあたりのプレイヤーが苦労している(はずの)ポイントとは別のところに楽しみどころを見つけようと思えば見つけられてしまう。

だから、同じ演奏聴いて、その感想を言い合うと、この人はここのところが聞こえていて、あの人は、そういうのが聞こえないけど、このあたりを面白がっているんだな、ということがわかってしまう。

まあ、美術でも文学でも同じようなことは起きますけどね。

で、私が見ている感じだと、お客さんのほうにも、どこがどうなってるのか、少しずつでもわかって楽しみたいという意欲はちゃんとあると思います。

もし、関係者が協力して育てていくべき何かがあるとしたら、そういう意欲をいい方向に高めていくことだと思う。

「向上心」なんて持っても、どうせ途中で挫折して悲しい思いをするだけだから、それなりな自分らしさに満足しよう、みたいなムードから、世間の気圧が変わりつつあるように私には見える。いいかげん「病んだ私」への自己愛に浸るのはやめなはれ、と言い続けているのは、そういう認識があるからです。