場面の組み立てにプラモデルのような決まった手順はない

昨年の「魔笛」はとにかく場の数が多いヴァラエティショウのような作品で、コンヴィチュニーは、ひとつひとつの場面の演劇としてのスタイルを万華鏡のように変えていくので、まるで演出テクニックのカタログをみているようだったわけですが、

それぞれの場面によって、どこから手をつけていくか、どういう手順で場面を作っていくか、稽古の進め方も場面ごとに切り替えていて、だから10日間の長丁場だけれども、みていて飽きることがなかった。

ほとんど何も説明せずにとりあえず一度通してやってみてから、どんどん変えていくこともあるし、最初に場の狙いだけを説明して、具体的にどう動くか、各人にやらせてみることもあるし、まず動きの段取りだけを説明して、ひととおりのみこんでから音楽をつけることもあるし、さきに効果音を作ってから、それに演者を反応させることもある。

やりながら即興的に考えているように見せて、実は完成形をかなりはっきり想定していて、上手にそこへ近づけていくこともあるし、最初にかなり細かく決めてあった段取りをやってみて変えていくこともある。

まあ、ものを作るというのは何でもそうかもしれませんが、手順はプロモデルの「作り方」みたいに番号順で決まっているわけではないと、いってしまえばそれまでですが、どこからどういう手順で手をつけていくか、というところから既に演出、歌い手さんとのゲームがはじまっている感じがします。

で、ヴェルディのようにソリストのチームプレイがあって、さらにその背後にコーラスがいるような19世紀のオペラだと、場面の組み立ては格段に複雑になって、これをゴチャゴチャしないように進めるのは、さらに大変そうですね。

(大変なのだけれども、ヴェルディは人気演目でテキパキ公演を重ねたら確実に稼げるので、だから通常の公演では、ややこしいところは決め打ちで切り抜けることになってしまうのかもしれない。

オーケストラでも、例えばペトルーシュカなんていうのは、今でも、ちゃんとやろうとしたら、たぶん「春の祭典」よりさらに難しいと思うのですが、かつてバレエ・リュスはこれが人気演目だったから、何回も公演したわけですよね。どうすれば、こんな難しいアンサンブルを連日やれたのかと思うけれど、定番のオペラが再演を重ねるごとにルーティンの約束事の塊になっていくようなことがオーケストラ曲でもある(あった)ということだろうと思います。

「読み替え」というと、かってに作品をいじくり回している印象が強くなるけれど、実際の作業は、少なくともこの人の場合、作品のパーツを全部いったん分解して、部品をひとつずつチェックして、一から組み立ようとしている風に見える。

ワークショップだから、ということでもなく、この組み立て作業につきあってくれる人たちとでないと、このスタイルでは一緒に仕事ができなさそうですね。)

[メロディーを分割して会話にしてしまうヴェルディの書き方は、ひょっとすると、レチタティーヴォ風の「音楽の散文」がメロディーを浸食してアリアとの境目をなだらかにするドイツ流のやり方と、方向は反対だけれど、目ざすところは、オペラを「曲」の並列じゃなく構成したいということだから、ほぼ同じで、目標に反対の方向からアプローチしたのかもしれませんね。ヴェルディは、ワーグナーみたいに自分のやろうとすることをやかましく喧伝しないけれど。]