表音文字の宗教、表意文字の宗教

チカマツがアヴァローキテーシュヴァラ・ボーディサットヴァの像の所在地を織り込んだ娼婦の叙事詩をオーザカのプッペンテアターのために書いたことは、どこでどうやればどれくらい人の興味を惹くものなのか。何かやり方はありそうな気がするのだけれど。ポップにしちゃえばいいわけか……?

Shin Buddhism in Japan - 仕事の日記(はてな)

の件は、表音文字と表意文字の関係が絡んでいるような気がしてきた。

「観音菩薩」とか「阿修羅」とか、「空」とか「諦」とか、わたしたちは漢訳仏典に出てくる漢字表記で仏教にアクセスしているけれど、近代の西欧はサンスクリート語やバーリ語でブッダに直接アプローチするのが本筋で、そこからこぼれ落ちるものは、Zenとか、こちらが英語などの彼らが読める言語に翻訳してあげてはじめて認識するわけですよね。

こっちもサンスクリットやバーリで仏教をやらなきゃ、いつまでも話が通じないぞ、というのが仏教学の近代化で、その甲斐あって、平易な日本語でブッダのことばを読めるようにしてくれた中村元先生が出てきたわけですけれど、そうなると漢字はどこへ行っちゃったのか。

「西欧とインド」の話は、駆け足の観光旅行のようなものではあるけれど、とりあえずの雰囲気を味わったんで、こうなると、「西欧と漢字」が気になる。

西欧のインドへの畏怖と情熱(とワーグナー)の話の次は、文字も込みで東アジア文化圏に西欧がアプローチした経緯、どういうモチベーションがあったのか、なかったのか、少し勉強してみたくなってきた。

当節の世間の雰囲気だと、グローバル化に鑑みて、今後、仏教は我が国でもすべて英語表記もしくはサンスクリット表記を標準としましょう、みたいなことを言う人が出るかもしれないし。

(漢語をやめてカタカナにするほうがポップでキャッチーなんじゃないか、というのは、富士山麓に秘密基地を作ったカルトの人たちの言葉遣いにも感じられましたよね。で、当時、阪大の院生とかが見事にそれに釣られたわけだ。

これを言うと怒られるかもしれないけれど、ワーグナー教団の方々にとっても、ヤールブーフとかシュンポシオンというカタカナのほうが、年刊や会合と書くより霊験あらたかに思われる、というのが、たぶんあるわけですよね。

漢字の世界の住人がカタカナを介してアルファベットの世界に憧れるのと、アルファベットの世界の人たちが漢字の世界へ注ぐまなざしとは、対話が成立する関係になっているのか、すれちがったり、一方的だったりしているのか?

たとえば、ヤーパンにヴァーグナーをアインフューレンするうえでヴィヒティッヒな人物のひとりに森鴎外がいて、この人は、日本人でもこの固有名詞以外でほとんど使わない文字が名前に含まれているから面倒くさいし、その独特に面倒で鬱陶しい感じが、わたしら日本人にとってはワーグナーの面倒で鬱陶しい感じと結構ごっちゃになって絡み合っているかもしれないわけだが、こういうことは、どこで誰に言ったらいいのか。)