集客力

上のエントリーで書いたことはつまり、「音楽のエッセンツィア」というシリーズのコンセプトには、「集客力のある内容にする」というのが最初からシリーズのルールとして書き込まれていたはずなのに、結局5連敗だったな、ということだ。

最初の西村朗がもしかするとこのルール設定に深く関与したんじゃないかと思うのだが、2回目以後は、中川俊郎はCM音楽で活躍しているから大丈夫だろう、伊左治直はボサノヴァとちんどん屋だからいけるだろう、野平一郎はサックスの神様ドラングルを連れてきたら客を釣ることができるだろう、ということだったわけだが、そんな甘い物ではなかったということですね。

三輪眞弘のアルゴリズム作曲とフォルマント人工音声と偽の儀礼は、手法として盤石の安定度で伸縮自在に大きい場所でも小さい場所でもできるし、時事ネタを上手にすくい取ることができるセンスもあるのだけれど、これも、だからどうした、ということで終わった。

劇場の音楽とコンサートの音楽は違う、とよく言われるけれど、実験室の音楽とコンサートの音楽も、同じくらい違うはずなのではないか。西村朗からすれば、力のある作曲家にコンサートの音楽で真っ向勝負して欲しい、というのがシリーズの意図だったんじゃないかと思うのだけれど、シアトリカルなものへ逃げるか、あとは内輪受け、というのが実情。

それじゃあダメだ。

作曲家が現在を「3.11以後」と認識するのであれば、佐村河内/新垣の事件も当然そこには含まれないとおかしいはずなのに、そのあたりは、相変わらず「3.11以前」と変わらないんだよね。

いずみホールで室内オケが座付きでスタンバイしているんだから、ルールを設定するとしたら、

  • 室内交響曲
  • 標題音楽or時事ネタ
  • 自伝的音楽

以上のいずれかひとつを必ず含むこと、という縛りで新シリーズをやってはどうか。それくらいの覚悟のない人には、個展はやらせません、ということで。

あと、委嘱作品は初演後すぐに客席のお客さんが投票して、「不信任」が過半数だったら作曲料は支払われない、というガチバトルにしてもいいかも。

作曲家がプレッシャーに負けて棄権したとしても、これなら主催者側に損害はない。

これくらいのやる気を見せてくれへんかったら、大阪の舞台にのせる価値ないな(笑)。