鬼が笑う話

そろそろ、今年はこんな感じだったな、という「まとめ」が見えつつある時期ですが、2014年は、クラシック音楽を無自覚になんとなくやる、というのがどういう立場の人であれ無理な巡り合わせの年だったように思われ、それぞれが切り札に近いカードを出した年だったような気がします。

あれまあこんなことやっちゃって、みたいのもあったし、よし、そうこなくっちゃ、みたいのもあった。

だとすると2015年は、その結果が出る年なんじゃないですかね。

どのみち、そこまで劇的に景気が良くなって、世の中に回るお金が一気に増えて、ということではないでしょうから、大変なことに変わりがないけれども、その大変さの質のようなものが、それぞれに見極められていくのではないか。

最後の切り札を切って、その結果がこうだったということはここが max なのかなあ、と納得せざるを得ないことになる人もいるだろうし、

苦しいには違いないけれども、この感じだったら続けていけるな、と思える人もいるだろうし。

どっちにせよ、今は1年先2年先の予定がばっちり決まっちゃっているのが普通ですから粛々とスケジュールが消化されていくのでしょうけれども、そうした「大変さの質」の違いがどこに一番現れるかというと、今度こそ「観客動員」なんじゃないですかね。

宣伝の力でめいっぱい大きく打って出たことへのリアクションがどうなるか、信用と実績へのリアクションがどうなるか。

選挙の投票行動というのは複雑怪奇でそう簡単に予測や分析ができるものではないようですが、今年のクラシック業界ほど、「はっきり/くっきり/わかりやすく」(←これは表看板の話だけでなく、どこにどういう風に裏で手を回したら自分たちに何ができるか、というアレコレを含めて、露骨に、という意味を含みます)をやりきったときには、結果もまたストレートに出るであろうということを、良くも悪くも覚悟せざるを得ないでしょう。

だって、別に生活必需品じゃないのだから、面白そうだと思えば「また行こう」となるし、なんか嫌なことがあれば、単に行かなくなるだけのことですもんね。

選挙は、政治家がその座に居座ろうと思えば回避してある程度居座ることができるけれど、コンサートは、やらないまま、ヴァーチャルに「やったことにする」はあり得ない。

お客さんが来るか来ないか、そこのところで、コンサートというものが単なる「情報」じゃないんだ、というのが一番はっきりする。こればっかりは、逃げも隠れもできませぬ。

さて、どうなるか。

(私は、そういう風に「数」でストレートに結果が出てしまう場で生きていく根性も才覚もないと思うから舞台の上に立ったり、そういうことを自分ではやらないわけであって、その、「自分ではやらない」立場である特権を最大限に生かして、来年がどのような年になるのか、見物するのを本当に楽しみにしております。

たとえお客さんが来なくても、情報は流れ続けるわけですから、誰かがレースから「脱落」しても、実は当人以外は本当には困らないんですよね。それは残酷なことではあるけれど、みんなが色々なことを「はっきり/くっきり/わかりやすく」やり切るのは、こうした当事者と傍観者・見物人の立場の違いが「はっきり/くっきり/わかりやすく」なってしまうということでもある。既にゲームはスタートしているので、結果を受け取ることだけを拒否する、というのは通らないっすよねえ。

まあ、なんでこんなことになったのか、因果な話ではありますが、きっと来年はそういう年になると思いますわ。

太平洋戦争さんから来年で70年。団塊さんが色々な場所に役員だったり偉いさんだったりで居残るもの、さすがにそろそろ難しい時期に入ってくるわけですから、きっと色々変わっていかざるを得ないでしょう。)