「ゼロ記号」論は筋が悪い

佐村河内/新垣の話はもう一歩先まで行きますよ(笑)。

話してると面白いけど、書くのが下手な人、というのがいる。留学生が半年くらいで流暢に会話できるようになった、クライメートと楽しくキャンパスライフを送っているから語学堪能なのかなと思っていると、レポートはグズグズ、というのはありがちな話で、やっぱり話し言葉と書き言葉は違う。

学者もそうで、上手に会話を回していくことができるから、そこそこ声をかけてもらえるのだけれど、書くのはダメな人というのはいる。

立派なおともだちがたくさんいるのに、慣れない領域、あんまりよく勉強していないテーマで作文すると「フランクフルト学派」になっちゃう増田センセも、見栄張ってるけどそのタイプなんだと判明したわけだが……、

まあ、それはこの際どうでもよろしい。

http://d.hatena.ne.jp/smasuda/20141125

作文がへたくそだから、まったくそういう風には受け取ることができないけれど、たぶん、再三引用しております上のワークショップの趣旨説明は、平成のニッポンで今も一部のひとたちが期待をかけている「ゼロ記号」論がやりたい、ということなのでしょう。

天皇は空虚な中心だ、という、前の天皇が死んだときにさかんだった議論をまだ覚えていて、今度は、なのか、今も、なのか、今こそ、なのか、とにかく使えそうだと期待をかけているわけだ。

マンガのキャラはゼロ記号だ、とか、ゲームのアイコンはゼロ記号だ、とか、「役割語」は中身を問うても無意味なコスプレだ、とか、平成ニッポンのカルチャーを読み解くのに汎用性がありそうだから、クラシック音楽=アートとしての音楽もゼロ記号だってことにしたら、うまくいくはず。平成ニッポンは全部これで解読できるという信仰みたいなものがあるんだと思う。

なんとなくリベラルでなんとなく天皇制擁護の立ち位置だと、これが一番好都合ですからね。

でも、残念ながら現在の日本のクラシック業界で、「ゼロ記号」論はもう古いと思う。

人の交流・往来がさかんだから、その種の閉じた文化モデルを適応しようにも底が抜けている、というか、天井が開いてしまっています。

[だから、渡辺裕や吉見俊哉がスターだったのかもしれない「平成前期」はもう終わったんですってば(笑)。]

で、佐村河内/新垣問題(←私は「事件」とは言わない)は、誰かから古いお仕着せを「着せられた」という受け止めが正確だと思う。

そして問題発覚後は、お仕着せとはいえ結構似合ってるから着続けてもいいんじゃないか、という人と、もう終わったことだから関係ない、という人に分かれた。

だから、今さら潜在的「ゼロ記号」信者を集めてワイワイやっても、左翼が広場で天皇制打倒を叫ぶ、みたいな土人の集会になって不毛だと思う。

音楽家をめぐる通俗読み物、作曲家の偶像視は、別に日本だけのことじゃなく、他の国でも色々あるんじゃないかと思う。ただ、留学したり、何かの研究で日本から行く人が、わざわざそんなもの買ったり読んだりしないだけなんじゃないか。

「ゼロ記号」論は閉じたシステムのモデルなので、日本国内の事例だけでこれを展開すると日本特殊論に帰着するのがオチでつまらない。閉じたシステムのモデルであるからこそ、できるだけオープンに外部の事例を集めておかないと、学問とみなしうる批判的吟味、モデルの有効性と限界の見極めはできないと思います。

イデオロギーの問題ではなく、学問としてやり方がおかしいんじゃないか、というだけの話です。