隠喩としての「ゼロ」

上のエントリーについて、たとえ話を思いついたので書いておきます。

佐村河内/新垣問題は、「ゼロ記号としてのクラシック音楽」をぐるぐる回せばいい商売になると思った人たち(具体的にそれが誰なのか、実証・検証は今後の課題)が数年にわたって華々しく闘って、見事に撃沈した「負け試合」です。(「事件」として立件すらされなかったのだから、最後はグズグズですよ。)

そして、徴発されて前線に立たされる役回りになったクラシック音楽関係者は、「やっぱりうまい話にのっちゃダメだね」とそれぞれに思い知った。だから、もう二度と同じ形での再発はないと思う。(この一年で、他にも色々なことがあったので、ものすごい勢いで現場は再編されてます。これは確かな実感があることです。)

そういう状況下で、「ゼロ記号としてのクラシック音楽、鳴り止まず」と旗を振るお前は何者なのか?ということになります。

「ミッドウェー海戦、大勝利」と嘘の報道をして、もうやめとけ、が持論だった山本五十六を失って、南洋の島々が次々玉砕、という壊滅への第一歩に大本営の無能な司令官が舵を切ったということなのか。

(そういえば、増田聡先生が「21世紀の国柱会(ただし左右反転)」みたいなスピリチュアルな私塾の熱烈な信者、一番弟子であることは誰もが知るところだしねえ……。)

あるいは、笛吹けど踊らず、誰からも相手にされなくなった傷痍軍人・在郷軍人(←いわゆる「人文系」とほぼ同義、だったら哀しい)が、年に一回、同窓会で軍歌を歌う姿なのか。

私の「今は戦後であると悟れ」説は、このような見取り図です。何かおかしいところ、ありますか?

つまり、百田尚樹が散々に叩かれているけれど、カルチャー大好きなお前たちこそ、「永遠のゼロ」じゃないか、ということです。(←我ながら、結構いいフレーズだ。こーゆーときに「胸アツ」って言葉を使ったらいいのかな(笑)。)

[クラシック音楽には「ゼロ記号」を無尽蔵に産出する打ち出の小槌があるはずだ、などというファンタジーを頭のおかしいポピュラー音楽研究者に推定されては、たまったもんじゃない。ほんと、流言飛語は止めて欲しい。]