「悪」の変質

「悪」とは何か、いままでちゃんと考えたことがなかったので雑駁なことしか言えないが、とりあえず「反社会的なもの」もしくは「反制度的なもの」であるとしましょうか。(単にカテゴリーから外れている「非社会的・非制度的」ではなく、積極的な反抗・抵抗・反逆・敵意がないと「悪」な感じがしないから、もうちょっとちゃんと定義しないといけないのだと思いますが。)

で、「芸術は悪だ」とか、いちおうそういう風に、「悪」が対抗軸として機能する状況・文脈は、ある、あったんだろうと思う。「善」が社会や制度の中核にがっちり組み込まれている場合は、それとの対比で「悪」という軸を立てることの意味が生まれてくる、とか、そういうことなのかもしれない。

でも、ふと気がつくと、今どきは「悪」の側に物事を振っても、それは格好の差異であって、差異のあるところには必ずビジネスチャンスがある、とか、そういう感じですよね。いわゆる「炎上マーケティング」とか。「悪」は、もはや「善」に対抗する軸を立てるというよりも、耳目を集める旗を振っているに過ぎない感じがある。

だから、そこで商売をしたいんだったら「悪」の旗を振ってもいいかもしれないけれど(百田とか)、商売ならざる何かを目的とするのであれば、たぶん、別の旗を振ったり、別の軸を立てたほうがいい。

その意味で、「悪」の是非は、モラル・道徳の問題(だけ)ではなくなっているんじゃないかと思う。

(「違法コピーの是非」もそういうことで、もはやそれは「悪」とは違う何かになっているということを長らく擁護派が強く主張してきたわけだが、いくらなんでも、世間もそこまでバカじゃないんで、「そうはいっても色々問題が出てくるんじゃね」と異論を唱える側だって、いつまでもモラル・道徳の軸でそれを言っているわけじゃない。そういう風に局面が展開しているんじゃないだろうか。

そして佐村河内/新垣騒動も、毒々しいものが次から次へと頓挫するこの一年の風潮のひとつであると思われます。だからこれまでのあれこれの延長に位置づけて終わりではなく、似ているようでいて違う感じがするのはなぜか、を考えるほうが私にはアクチュアルに思えます。

誰かが言った言葉に茶々を入れて退屈と無力感の濃度を保つより、自分で言葉を探すほうがいい。)

[私は「エア」の世界に無責任に毒を流すのは嫌なので、この文章が、大づかみではあるけれど増田聡先生の長年の(最近はちょっとワンパターンになりつつあるのかもしれない)複製技術論等への疑念の一環として書かれていることを明記しておきます。]