古代ギリシャと詩

小谷野敦が「イリアスは口頭伝承ではなく、個人の作としか思えない」とか、「ウェルギリウスはホメロスに遠く及ばない」という言い方をするのは、主に話法・物語の観点が強いように思う。エネアスの話よりアキレスとヘクトールの話のほうが(まだちゃんと読んでないけど)面白そうだし、トロイ戦争の物語群からあそこだけ切り取る判断は、たしかに凡庸な作家にはできないのかもしれない。

それはそれでいいのだけれど、でも、一方でたぶん、イリアスを個人で全部作るのは無理、というのは、チクチクと言葉を織り上げていく詩(韻文)としての成り立ちの話なのだろうと思う。そしてエネアスの話をラテン語で完成まであと一歩のところまで書き上げちゃったウェルギリウスは何者か、みたいなことになるんだと思う。

ギリシャ語もラテン語もよくわかっていないので、ちょうど楽譜を読まずにざっくり聴いた印象だけで音楽の特徴の当たりを付けるときみたいに、きっとそういうことなのだろうと想像している段階でしかないけれど……。

ヨーロッパの芝居の台詞がこのあともずっと韻文基調なのは、ギリシャもしくはローマを「古典」と仰いだからですよね。そして韻文になってなかったら、台詞を全部「うた」にしてしまおう、というオペラの企てもなかったはず。

近世の宮廷オペラの台本を書いた人たちだけでなく、19世紀のオペラに数々の題材を提供することになったユゴーも、20世紀パリのアイドル、コクトーも「詩人」なんですよね。

「詩と音楽」と言うときに、定型有節抒情詩をピアノやギター伴奏でうたう行為だけを取り出して考えてしまうと、話の広がりが見えなくなってしまうが、でも、このあたり面倒そうではある。

古典古代へ遡って戻ってきたところで、新古典主義問題を再訪することになるんだろうと思うのですよ。

20年前に岡田暁生が「プルチネルラ」を題材にして言ったように、戦間期の新古典主義とはアレンジの詩学、作曲としての編曲なのであって、コクトー(「プルチネルラ」とは関係ないけど)やストラヴィンスキーにポストモダンの芽がありそうだ、ということにすると、記号消費の20世紀をおおっぴらに楽しめばいいことになって万々歳になりそうだけれど、どうもやっぱり、それでは片付かないことが色々ありそうな気がします。

しかし、ストラヴィンスキーやプロコフィエフはロジア人だから、お気楽なポモじゃない切り口を見つけるのはそれほど難しくなさそうだけれど、ポモの軍門に降ることなくフランス戦間期の六人組を語るにはどうしたらいいのか。

(20世紀の音楽劇に関しては、戦間期に有象無象が時流に遅れまいとして色んなことをやったけど、今となってはそのあと英国で身の丈に合ったサイズの作品を量産したブリテンが圧倒的に偉かった。20世紀のオペラはブリテンでとどめを刺す、みたいに偏ったポジショントークをするほうがかえって「発見的」ではないかと思ったりもするのですが、どうなんでしょう。たとえばアレックス・ロスの20世紀音楽本は、ちょっとそんな感じもありますよね……。)

[いっそ20世紀を視界の中心に据えれば、三大Bはバッハ(新古典主義)・ボロディン(ロシアの季節)・ブリテン(アングロ・サクソンの台頭)でいいのかもしれない。]