言語の記号的消費

ひと頃は記号的消費や記号消費がボードリヤールを引き合いに出してさかんに言われたらしいのだが、

私淑する書き手の文体による作文を一日一本自らに課す、

とか、

回文を作って遊ぶ、Googleにヒットしない単語の組み合わせを見つける、いかようにも解釈できる玉虫色の作文でリツイート数を稼ぐ、

とか、

というのは、書き手の主観では修行であったり遊びであったり、一定の納得・意味づけがなされているのだろうけれど、

できあがったものを受け取る側からだと、いずれも、言語の記号消費、もしくは、消費者マインドを純粋培養した架空の人格による憑依状態の言語運用にみえる。

大久保賢と増田聡は、ある角度から見るとほとんど同一人物じゃないかと思えることがあるのです。

いいのか悪いのか知らんけど、消費者ではないがゆえに消費者に憧れる、もしくは、消費者こそが現代の詩神である、みたいのがあるのかなあ、と思ったりする。これもひとつの人文のこじらせ方か。