キッチュ再訪

グリーンバーグ批評選集

グリーンバーグ批評選集

20世紀のグラフィック・デザインの話をものすごくおおざっぱであれ眺めたあとだと(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20150103/p2)、リトアニア系ユダヤ人の左翼さんであったらしいグリーンバーグの「モダニズムとキッチュ」という1930年代の反ファシズム・反社会主義リアリズムの議論は、アドルノのポピュラー音楽論とほぼ一緒なんだな、と割合素直に納得できる。

で、グリーンバーグ先生やアドルノ先生に叱られっぱなしでは辛いなあ(←これがいわゆる「貶されたら反抗する」の精神ですな)と思っていたところに、ニューレフトなCSの皆さんがグッドタイミングに議論をアップデートしてくれたことになっているわけだけれども、

CSさんの「ポピュラー・カルチャーも捨てたもんじゃない」「受容者こそが主役なのだ」論は、上の世代の先生たちの「アヴァンギャルドは天真爛漫で好ましい、キッチュ/フェチは虚偽で好ましくない」という不均衡な対比を是正して、資本主義近代社会には、キッチュ/フェチが生まれてしまうのだ、アヴァンギャルドとキッチュ/フェチは、同じ母胎から産み落とされた双子のようなものなのだ、というお話にしている印象がありますよね。

19世紀から20世紀前半のモダニズムの純粋化運動がしばしば親殺しの孤児・私生児のイメージ(←いわば「revolution/革命」史観)を引き寄せるのに対して、20世紀後半のアップデート版では、モダニズム兄さんにキッチュ/フェチという血を分けた弟がいる。「ひとりじゃないんだ、ぼくはもう、寂しくなんかない」みたいな感じでしょうか。(コクトーの恐るべき姉と愛すべき弟、という組み合わせは、来たるべきアップデートの予兆だったりするのだろうか……。)

兄弟・朋輩なんだから、ときにはケンカをしても、なんとか一緒にやっていけるはず、ということなのだと思うけれど、このお話って、ちゃんとDNA鑑定とかしたんですかね。

アヴァンギャルドとキッチュ/フェチという区分けというか対比でほんとに大丈夫なのか、グリーンバーグ先生やアドルノ師匠の言ってることは結構荒っぽいですよね。アヴァンギャルドやモダニズムや否定弁証法から外れるものは十把一絡げに中身を精査せずに「敵」(キッチュ/フェチ)認定してしまう。プロパガンダ合戦で騒然としていた1930年代の話法に悪く引きずられた二分法であるように思います。

(だからこそ、論争的・扇動的・運動論的な言説を立てたい人たちにとっては使いやすかったのかもしれませんが、もういいやろ。)

経済学として見たときに、マルクスの教説ではうまくいってないところが色々あるらしいじゃないですか。マル経と近経の二系統がある(どっちが「本命」でどっちが「大穴」なのかしらないけれど)、というより、ほんとはもう、マルクス派も経済学諸派の one of them でよさそうですよね。(恐いからなかなか言えない事情がありそうだけど。)

アヴァンギャルドvsキッチュ/フェチという大枠を疑わないままで物を考えるのって、なんだか、剰余価値説しか教えない教条的な経済学部みたいになっちゃいますよね。芸術音楽もしくはシリアス音楽とポピュラー音楽、という区分けからスタートしちゃうのは、まさに、その状態なわけですが、いいんでしょうか。

(「最強の弱者」なる立ち位置が出現してしまうのは、この枠組みのせいじゃないかという気がするのだけれど。)