モーメント:引き合う力、あるいは時空の歪曲

「マキァヴェリアン・モーメント」というなんとも魅力的な言葉を知って以来(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20150324/p2)、モーメントについてずっと考えている。

とりあえず物理、力学だろうということで、むかし教わった気がするけれども全く理解できなかった「力のモーメント moment of force」を初心者向けの参考書で勉強するところから始めて(トルクとか)、慣性モーメント moment of inertia という、もはや私にはお手上げな概念の説明をつらつら眺めていると、inertia ですから、いかにもガリレオ/ニュートン時代の力学っぽい話みたいで、オイラーの名前が出てきて、さらには数学とりわけ確率・統計におけるモーメント概念とのつながりが示唆されていたりする。

こうなると、遠くの世界の紛争をぼんやり眺めている状態ではあるのだけれど、どうやらこれは、gravity(重さ)の話と関わりが深いようだ。

ニュートンが、幾何学的な証明の連鎖によって、物体がお互いに引き合う「ある種の力 force」(「2つの物体の質量に比例し、物体間の距離の2乗に反比例」)を探り当てて、これが「万物の重さに関する法則[万有引力] law of universal gravitation」だったわけだが、アインシュタインの一般相対性理論では、時空の歪みが gravitation だということになっている。

そしてモーメントは、軸や支点と隔たりのあるところで作用する力(アルキメデスが発見した梃子の原理にはじまって、物体の回転や円運動など)を解析するために召還された概念だったのが、数学的に抽象化すると確率・統計(やってることはデータ分布の歪みの解析ですよね)に使えるらしいので、発想の推移がよく似ている、というか、たぶん、やってることは同じなんでしょうね。

プリンキピアは「○○と××は比例する」という命題を積み重ねる論法なのだそうで、やはり17世紀になっても、ラテン語で綴られた ratio こそが「知」であったようだ。

あと、「2つの物体の質量に比例し、物体間の距離の2乗に反比例」という法則 law を証明することはできたけれど、なぜそうなるのか、理由・原因について推論や仮説を提案することを自粛して、「神がそのように秩序づけた」と言って終わる。ratio の自然哲学にできることとできないことの境目を考えるうえでも、原典がどうなっているか、は大事そうです。

「離れた2点間に作用する力」とか、「時空の歪みが重さを発生させる」とか、いかにも政治の話っぽい。今は亡きスティーヴ・ジョブズの現実歪曲フィールドというやつですよね。

マキャヴェリの「モーメント」にそういう含みがあるかもしれないと妄想すると、近世は、一層面白くなりそうだ。

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ゼッフィレッリの映画は将軍の執務室に地球儀などを配置していたし、一昨年のフェニーチェは星座を象徴的に使っていた。このオペラの心理戦には、ガリレオ/ニュートン的な力学の意匠が似合うんですよね。愛とはお互いに引き合う力である、みたいな感じがするし、イアーゴは、自分では手を下さずに、オテロの心を遠隔操作しますから。

要素 element は「元素」ですから、全体を部分に分ける原子論、構造論になる。

要因 factor は事実 fact の原因 cause を特定しようとする因果論で、一種の物語になる。

契機 moment は、場を制御する力を支点・軸との相関で把握しようとする力学、政治学になる。

要素・要因・契機は、いずれも何らかの基本単位を指しているけれど、文脈というか説明のモードが違うんですね。

政治は、人間を統治機構の「要素」として扱ったり、イデオロギーズから導かれる「要因」の組み合わせで思想や行動を色分けするだけでは不十分で、ときには寝返る(←回転!)こともあるドラマチックな運動の「モーメント」を解析しないといけない、ということかもしれない。

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買うかどうか迷っているのだが、話の方向は「蓮實派」のイーストウッドへの賛辞と実はあまり違わないんじゃないかと予想され、次々映画を観たくなりそうなので、保留している。