算術

仮に、大学を円滑に運営するには30種類の業務があると仮定する。

各業務にひとりずつ人員を当てれば、必要な職員数は30名。計算を容易にするために、この大学の教育・研究活動に170名の教員が必要であると仮定して、一人当たりの人件費水準を500万と設定すれば、この大学の年間の人件費は、

5,000,000 * (30 + 170) = 1,000,000,000

10億ですね。(教員と職員の比率はもっと職員が多いかもしれないけれど、総員200名はミニマルサイズとしてあり得ない数ではない気がします。)

設備が諸々必要で、年間の運営費に占める人件費の割合が50%だとすると、年間の総運営費が20億。

これをすべて学生の授業料でまかなうとしたら、授業料を一人年間250万に設定した場合、

2,000,000,000 / 2,500,000 = 800

4年生大学だとして、毎年安定して200人の新入生を確保しないと赤字になる。

中小規模の単科大学だったら、ほぼこんな感じじゃないだろうか。

(大学の経営資料など一切見たことがないので、すべては想像だが。)

何が言いたいかというと、「適材適所で専門能力を備えた職員を不足なく雇用」を実現できるのは、おそらく一定以上の規模で経営された大学だけだろうということです。

長らくその規模(以下)で経営され続けている大学は、最初から複数の仕事を兼務できる人材を恒常的に求め続けているだろうし、規模を確保できている大学は、こうした分業が安定稼働しているだろう。

思うに、「向いていない仕事をやらされている」という種類の悲鳴は、かつては職員の分業が可能な規模だったのが、学生数の減少でそれが難しくなった、ということではないのだろうか。そして職員の兼業だけでは間に合わなくて、教員もあれこれ分担せねばならなくなっている、と。

そりゃ、「分業」ができる規模を確保しているんだったらやればいいけれど、それが難しいからどうしよう、という話をしているんだと思う。

例えば、外注でコストを削減する、という定番の解決策は、外注先と円滑に提携するための管理コストが増える副作用を生みがちで、「最近は書類ばっかり書かされる」という声はその症状だろう。

管理業務を増やすのも限界があるし、管理業務に向いていない人もいるだろうから、だったら、自営・独立できる部署(人)は、どんどん独立したらいいんじゃないのかなあ、と思う。

相手の仕事に対するリスペクトというのは、こういう状態でこそクリティカルになる。そこで、「ああいう手合い」という言葉を使ってしまうかどうか、ということが問われているんだと思う。