- 作者: 西村清和
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 2015/08/28
- メディア: 単行本
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Mimesis as Make-Believe の最初の着想とされるウォルトンの論文は、「加速の人」森功次氏の訳で、西村清和監修の論文集に収録されている。
しかも、これに対する西村清和の巻末の解説は、「ウォルトンの主張は、北米では決定的な定説扱いされているが、あんなものは大したことはない。オレは、1993年の「フィクションの美学」で指摘したフィクションのパラドクスを取り下げないぞ」と宣言している。
フェアな論争は、こういう風に自説を曲げない人たちが正面衝突して膠着する局面を含む。トーナメント戦のように、順当に特定の説が勝ち上がって優勝する、という風にはならない、ということを、分析美学のプレイヤー自身が身をもって示しているわけですね。
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論理学的な手続きを更新することでこの膠着状態を解きうるのか。必ず論理学的な解があるはずだ、と頑張る人が出てきてもいいと思うけれど、とりあえず私は、手っ取り早く決着をつけて先に進みたいので、論理学に見切りを付けて、歴史的・文化的な審級に上告したい気がします。
町山智宏が、アメリカの映画館はめちゃくちゃ騒々しい、と言ってますよね。アクション映画で、「さっさとやっつけちまえ」的なヤジが飛んだりするらしい。劇場におけるフィクション受容はインタラクティヴではない、という認識が西村清和のフィクションのパラドクスには組み込まれているが、北米の映画館で観客が恐怖を抱くときには、そんな小難しいメディア論的差異が吹っ飛んでいるのではないか? ウォルトンの議論は、そのようにメディア論的差異を吹き飛ばす日常のなかでなされているのではないか、と思うのです。
北米にも、西村が共感しうるメディア論的差異に敏感な論者がいて、ウォルトンの議論は、観客の「錯誤」を見逃していると指摘したそうだが、たぶんこの指摘は、文化論的に、かなりきわどく政治的だと思う。要するにその指摘は、「バカな観客の勘違いなど相手にするな」と言っているに等しいからです。
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ウォルトンが評価されてしまうことに西村清和が苛立ち、「映画の観客はインタラクティヴではない」というメディア環境を重く見るのは、最近の「プラスチックの木でいいじゃないか」に連なる発想で、人工物に取り囲まれた東京の都市生活者にとって、西欧の古典的文化・教養などというものは過ぎた贅沢であり、そのような骨董品に執着するのは、この島においては怠惰な反動である、ということだと思う。だから、ウォルトンじゃあダメなんだ、ということだと思う。
人工現実に籠城することが北米を出し抜く日本の道だ、というわけで、奇妙な形で、クール・ジャパンとナショナリズムが接合しているように見える。
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でも、これは話がねじれていますよね。
西村先生は、おそらく、日本に隠微に温存されている(と彼には見えているのであろう)古典的教養への郷愁を敵視していると思いますが、一方、北米の文脈では、ウォルトンの説を批判する側(バカな映画ファンなど信用するな、説)のほうが、むしろ反動的かもしれない。むしろこの主張の方に、大衆を見下すインテリの上から目線があるかもしれない。
ウォルトンの漸進主義(旧来の仮象論に毛の生えたようなもの)は、いわゆる北米の反知性主義を上から目線で排除する知性主義よりも、むしろ、リベラルなんだろうと思うのです。(たぶん森氏は、そこに期待を賭けているのでしょう。)
日本のエスタブリッシュされた文化資本への反発が屈折した反米ナショナリズムと接合した結果、かえって、北米のエスタブリッシュメントを支援してしまう、というのは、あまりにも見慣れた「戦後日本の知識人の不幸」ですが、西村先生の頑迷な膠着状態の正体もそれではないか。