スーパーサブの可能性と限界

広瀬大介がリヒャルト・シュトラウスのナチス時代の後期オペラに着目したり、小岩信治がピアノ協奏曲に取り組んだり、堀朋平(2人よりちょっと若い)がシューベルトの中期を熱く論じるのはスーパーサブの思想かもしれない。アンチ・ハイカルチャーということで、クラシック音楽の「カノン」が偉そうな顔でまかり通るのは許せん、というようなドナルド・トランプめいた糾弾の声が北米あたりから沸き起こりつつあるときに(それがニュー・ミュージコロジーと呼ばれる)、涼しい顔で、クラシック音楽といってもこういうのがありますよ、と、相手が標的と目星をつけた「カノン」とは随分様子の違うものを差し出して、豪速球を鮮やかにかわす身のこなしである。

音楽大学で幸福に育った人間だからこそ身についた処世術とも言えるし、北米流の豪速球は西欧音楽に命中して致命傷になるかというと、どうやらそういうことではなさそうなので、こういう動きが出てくるのは当然だと思う。重装備でガチガチに守ろうとして倒壊する巨艦主義よりはるかにマシだ。

でも、(そろそろ)それだけでは足りないんだろうなあ、という気がする。

クラシック音楽の「本丸」と目されている領域が、ビジネス・マインデッドなパーソンたちと、アマチュア上がりのクラオタたちに占拠されて、辛うじてにぎやかであるかのような体裁を保ちながらも台所事情は火の車、という秀頼の大坂城みたいになるのは、やっぱりマズかろう。

「ここはまず籠城ではなく打って出るべきです」

という主張をどういう風に処理・実装するのか。死ぬための突撃、とかは絶対ダメだが、じゃあどうするか、だと思う。

(日本音楽学会大会本部から次々繰り出される「指令」が、あたかも浪人達をまったく信用していない豊臣家のような文体で、「ああ、登壇者、発表者を大事にする思想がないんだなあ」と嘆息しつつ準備を進める今日この頃である。)