舞踊と文明

音楽学が万能ではないのは当然で、近代の作家作品研究は、ほぼ美術史の発想や方法を借りて整備されているし、このやり方では器楽の自立、いわゆる絶対音楽が有利になりすぎるという批判には、詩歌・演劇・物語を取り扱う文学研究を参考にして、歌やドラマや物語を扱う枠組みで対応しているに過ぎないと思う。言語論的転回を踏まえた音楽記号論、表象文化論、聴覚文化論というのも、音楽研究の現場の対処は、この枠組みを大きく超えるものではないようにおもいます。

舞踊は、人が身体をいかに制御編成してきたか、という人類学的な問いを指し示してはいるけれど、舞曲論、音楽と舞踊の関係の整理というふうに問いを限定するとしたら、そうした西欧の都市文明の自意識、自己省察の成果の蓄積から出発するしかなさそうだ、という認識にたどりつきつつある。

何が言いたいかというと、舞踊が舞台化されてバレエという姿で興行が定着したり、鑑賞用の音楽作品としてジャンル・様式が確立すると、劇場や音楽という文明に登録されたシステムの作法にしたがって姿形がはっきりするのだけれど、その源泉になっているとされる舞踊そのものについては、文献や図像やそこで使用されたとされる楽曲が断片的に残っているだけで、途端に姿形が不明瞭になることが多いみたいなんですよね。(バロック・ダンスの舞踏譜とされるものも、多くは舞台化された振付の記録ですよね。)

舞踏それ自体は後世に残らず、その痕跡や派生物だけが残る。行為・パフォーマンスとはそういうものだ、とも言えるけれど、行為・パフォーマンスをそのような位置に留め置くのが西欧の文明の形なのかなあ、という気がしてきます。

(所作を芸能として熱心に伝承する文化・文明というのもあるわけですから、それとの対比で、西欧さんは、行為・パフォーマンスの取り扱いに特徴がある、ということのような気がします。)

しかし他方で、現在、舞踊やスポーツに強い関心が持たれているのは、先方がそれ自体は消えていくものだと思ってやっている行為・パフォーマンスを、習得・伝承可能な何かだと思い込んでいるからではないか、という感触がある。

音楽の演奏(のスタイルや技法)についても似たような物象化を感じるところはありますが、バレエに代表されるダンスを習得・伝承しようとする人たちの確信の強さ、身体化された技法の脆さや歴史性を認めようとしない態度は、結構、「岩盤」感がありますね。

あの「岩盤」な確信は、行為・パフォーマンスの日本特有の態度・取り扱いではないかという気がするのですが、どうなんでしょう。