東大寺の修二会とカトリックの典礼、あるいは、五線譜をめぐる「恐い(かもしれないけれども畏れで終わらせていいとは思えない)話」

[3/23 後半の柴田南雄「修二會讃」の話に補足。3/25 そこへ更に追記&エントリーのタイトルを変更=柴田ご夫妻のこと・五線譜の作曲家による中央制御システムのこと。]

[4/9 フジテレビが「天使と悪魔」を放映するようです。震災直後にDVDで観なおしたときは、最後にヴァチカンの広場で起きる出来事に、今これを観るのは辛いと私は思いましたが、乗り越えてその先まで観ましょう、ということでしょうか。映画としては素晴らしいと思います。]

今回の災禍は、折しも、歌舞伎の成田屋さんと大相撲の力士さんが本領を発揮するのが難しいタイミングで起きましたが(http://www.kikuchinaruyoshi.com/dernieres.php←過去ログ「Mar-22-2011」をどうぞ)、

東大寺二月堂の「鎮護国家、天下泰安、風雨順時、五穀豊穣、万民快楽の行法」である修二会、いわゆる「お水取り」は、今年も3月1日から14日に執り行われたようです。

初夜上堂松明参拝者の皆さんへ

修二会(お水取り)行法は多くの困難もありましたが、1260年前より今年に至るまで、1回も途切れることなく、毎年国家安泰、世界平和、人々の幸福、風雨順時、五穀豊穣等を祈る行法として続けてまいりました。

ご承知のように3月11日未曾有の大災害が国を襲いました。本日ここにお参りにいらした皆様に、私より3つのお願いがございます。

http://www.todaiji.or.jp/message.html

マグニチュード9.0は日本の観測史上初の規模であり、原発の現状は世界の原子力発電関係者が注視する未知の領域であるわけですが、「お水取り」は日本が近代化して地震観測を開始したり、人類が原子力エネルギーを活用する知恵を得るよりずっと前から、毎年この時期に行われつづけてきたようです。(「1260年前」から今と同じ作法であったとは思えませんし、この年号を鵜呑みにしていいのかも私には判断できませんが。)

そして「大陸移動説」は、私が学生だった頃にはまだ学校教科書上では仮説であり、大学教養部の地球科学の講義で新書を読みながらレポートをまとめたものでしたが、今では高校の教科書に普通に載っているようです。人類が誕生するずっと以前、豊中の待兼山にワニが棲息するはるか以前から(私が教わった地球科学の先生はかつて待兼山ワニの発掘にも携わっていたらしい)、地表のプレートは、あちこちで軋みつつ移動を続けてきたと認めざるを得ないのでしょう……。私たちが数十年を一歩ずつ生きているのとは、圧倒的にスケールが違っていて、目眩がしてしまいそうな事態です。

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2月半ばにマクルーハンを読もうと思い立ったときに(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20110213/p1)、実は『グーテンベルクの銀河系』と一緒に、この本を購入していました。

声と文字 (ヨーロッパの中世 第6巻)

声と文字 (ヨーロッパの中世 第6巻)

大阪・梅田の紀伊國屋書店では、『グーテンベルクの銀河系』が世界史の棚に並べられていました。グーテンベルクだから世界史だ、と店員さんが考えたのか、書物の内容を踏まえたうえでの配慮だったのか、よくわかりませんが……、ともあれ、同じ棚に中世史のシリーズの一冊『声と文字』があり、むしろこちらに魅了されて、思わず一緒に買ってしまいました。

活版印刷(活字)とともにもたらされた近代の五感の分断を内心好ましく思っていなかったに違いないマクルーハンを読むときに、それと平行して、中世のカトリック教会の説教速記録や、中世商人文書に着目しつつ、中世の「声」と「文字」のせめぎあいを具体的に知るのは、スリリングな読書体験になりました。

この話に立ち止まると長くなりそうなので、詳細はそれぞれでお読みいただければと思いますが、「声の文化/文字の文化」というメディア論や文化人類学から人文社会科学に広汎に刺激を与えている問題設定を、具体的な事例から遊離しない地点に踏みとどまって考えようとするのであれば、大黒俊二『声と文字』は、これから必携の参考書になりそうな気がします。

マニアックな話なのに、とても読みやすかったです。必読。

儀礼と象徴の中世 (ヨーロッパの中世 8)

儀礼と象徴の中世 (ヨーロッパの中世 8)

芸術のトポス (ヨーロッパの中世 7)

芸術のトポス (ヨーロッパの中世 7)

岩波のこのシリーズは他の巻も面白くて、儀礼の身振り・身体性の意義という話は音楽にも関連しそうだと思いますし、一点透視図法以前の中世美術のリアリティを、言外に現代の漫画・イラストの表現法を意識しながら解説する芸術論も興味深かったです。

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)

この本が売れて以来、音楽史の本は全体を一冊で「一望」できるのが良書の条件であるかのように思われているようです。(アレックス・ロスの本の帯にも「一望」の惹句がありました。本の特徴を際立たせるより、「音楽史本=歴史を一望」という価値観に乗っかる売り文句になってしまっているようで……。)

一方、上記『芸術のトポス』は、絵画表現としての一点透視遠近法を相対化するとともに、現在と年代が近い時代=親しみのもてる時代、現在から年代が隔たっている時代=遠くてなじみのない時代、という歴史理解の遠近法にも異議を唱える含みをもって書かれています。

岡田暁生はグレゴリオ聖歌を歴史の「遠景」と呼び、ヨーロッパがヨーロッパになる前の、いわばユーラシア大陸西端の民族音楽のように扱うわけですが、歴史のキャメラは、そこへズームすることだってできるし、我々が知っていると思っていたクラシック音楽とは様子が違う民族音楽「だからこそ」別の刺激を与えてくれるとも言える。

岡田暁生の本がよくできているのは認めるとして、歴史を一点透視遠近法で書くしかない、と思いこむ必要はないし、透視図法の元祖である美術史のなかから、そのことを印象的にプレゼンする本が出て来たのは、痛快です。

“象徴(シンボル)形式”としての遠近法 (ちくま学芸文庫)

“象徴(シンボル)形式”としての遠近法 (ちくま学芸文庫)

  • 作者: エルヴィンパノフスキー,Erwin Panofsky,木田元,川戸れい子,上村清雄
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2009/02
  • メディア: 文庫
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芸術と幻影―絵画的表現の心理学的研究 (美術名著選書 22)

芸術と幻影―絵画的表現の心理学的研究 (美術名著選書 22)

遠近法が「象徴形式」のひとつに過ぎないと喝破したり、人が見ていないものを描いたり、見たものを描かなかったりすることに着目したのは、パノフスキーやゴンブリッジの卓見だったと思いますが、そうやって思いこみを崩す快感に酔いしれているだけでは話は先へ進まない。中世研究が、ちゃんとその先を掘り進んでいることを知って、そりゃそうだよな、と本当に嬉しくなって、この一ヶ月、私は、人知れずとっても興奮していたのでございます。

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さて、そしてマクルーハンから、メディア論に関して音楽へ応用できるものがあるのかどうか、という点については、ひとまず宮澤淳一さんが書いたグレン・グールド論で、おおよその見通しを得ることができそうなので、

グレン・グールド論

グレン・グールド論

残るのは、以前のエントリーにも書いたカトリシズム問題だろうと思いまして、以来一ヶ月、細々と、ネウマ、ソルミゼーション、カイロノミー、トロープスとセクエンツィア、モドゥスといった概念・現象の解説を読みあさっておりました。

大黒俊二『声と文字』に相当する視点を音楽に導入できるとしたら、やはりグレゴリオ聖歌だろうと考えたのです。

この話も、ここで立ち止まると長くなってしまうので詳細は省略しますが、

譜線で音高・音程を確定しない段階でのネウマ譜は、単なる過渡期と片づけることのできないものであるらしく、ネウマの様々な書体のことを調べたり、その背後に示唆されるカイロノミー(聖典の朗詠や聖歌の歌唱に手ぶりが連動する口承文化に特徴的な現象)がユダヤ教などに存続していると知り、YouTubeで色々探し回ったり、

あるいは、このあたりを系統立てて勉強した方には何を今更と言う常識であろうかとは思いますが、音階唱法(ut re mi fa sol la)において、ヘクサコードの境を越えた音域へ進むために別のヘクサコードへ乗り換える読み替え技法mutatioというものがあり、「ソをファにmutatioすること=solfatio」、「ソをミにmutatioすること=solmizatio」だ、というようにソルフェージュ/ソルミゼーションの語を説明するやり方があるらしい。

(しかもこうしたmutatioの話は、C音=utである自然なnaturaleヘクサコード、G音=utである硬いduremヘクサコード、F音=utである柔らかいmolleヘクサコードの三種を想定していたところから、dur/mollの語やシャープ・フラットのmusica fictaが派生してくるというように、ヨーロッパの音楽理論の数々の起源・語源の宝庫でもある。ソルフェージュは単なる楽譜の「読み方」以上の領域であるはずだ、という最近の東京藝大での議論は、このあたりが誰にも反駁できない「奥義」なのだろうと思います。

こういう細かい話は好き嫌い・得手不得手が分かれるところではあるのでしょうけれども、音楽は一般に器用な職人技に適性のあるタイプの人間が携わる営みだと思うので、この種の「わざ」の伝授は、音楽を学ぼうとする人への格好の撒き餌だったのではないでしょうか。グィード・ダレッツォが有名なのは、この奥義が彼の名前と結びつけて伝承されているからなのですね。)

また、トロープスとセクエンツィア(いわばグレゴリオ聖歌のレパートリーを拡張する中世後期の試み)、モドゥス(聖歌の分類法としての、いわゆる「旋法」)は、旧式の俗説や表面的な説明の先へ踏み込もうとすると、教会の日課や典礼の実際を知って初めて意味や成り立ちがわかるものであるようです。(finalisやtenorの説明に、詩篇唱がどうとか、アンティフォナーレがどうとかいう話が出て来てしまうようなのです。細かい話は略しますが、フレーズの出だしでモドゥスを判別する分類法が工夫されていたらしいという話に、私は百人一首の決まり字を連想してしまいました。人間は、膨大な量を分類しつつ暗記するときに、同じような工夫をするものなのだなあ、と。)

グレゴリオ聖歌は、理論(いわゆるmusica)と実践(歌うお勤め)がせめぎあい、声と身振りと視覚記号(楽譜)が交錯しており、なるほどマクルーハンが魅了されていたと思われる中世カトリシズムとは、こういうことかと改めて思います。

薔薇の名前 特別版 [DVD]

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この映画のロケ地にもなったザンクト・ガレンの修道院は中世写本のコレクションで知られており、ザンクト・ガレン写本のネウマは、ドイツの書体の典型としてグレゴリオ聖歌研究でも重要なものであるようです。
天使と悪魔 コレクターズ・エディション [DVD]

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それにしても、カトリック教会を映画で面白く見せようとすると、薄暗がりの中へ合理精神で分け入る推理・ミステリー仕立てになるようですね。そしてロン・ハワード映画のお約束としてプールの「水の中」にいたトム・ハンクスは、コンクラーベが始まろうとするヴァチカンにヘリコプターで乗り込んで行く!
天使と悪魔 (上) (角川文庫)

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コンクラーベは「根比べ」、というのはローマ法王崩御のたびに出てくるオヤジのダジャレですが、扉に鍵を掛けた密室で投票が行われるからcon clave (with key) なのですね。映画でも、鍵がうやうやしく映っていました。教会の「鍵」というと、音楽の扉を開く鍵=clavis(鍵盤)というのもあります。こういうのが、中世の儀礼と象徴、身振り・行為と意味のネットワークなのでしょう。

それから、

小鍛冶邦隆『作曲の思想』には、さりげなくバッハのインヴェンションとヘクサコードという話題が紛れ込んでいますが、

作曲の思想 音楽・知のメモリア

作曲の思想 音楽・知のメモリア

アルプスの北、フランク王国の流れを汲むカトリック大国の高等音楽院で学んだ野平一郎さんや小鍛冶さんが、ソルフェージュの重要性を説くのはどういうことなのか。

お二人の優秀さを認めるのにやぶさかではないにしても、「メシアンが20世紀に蘇らせたカトリック的な音楽の秘儀を我々は授けられた」というような意識があるとしたら、そこのところは、注意深く功罪を見極めながらローカライズしていかないと、禍根を残すのではなかろうか、と気になっているところではあります。

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そうして東大寺の修二会です。

「修二会」という文字の並びを「しゅにえ」と読むというだけでも既になんだか神秘的ですが……、

二月堂は、聖武天皇が建立した華厳宗の寺のなかの観音の別院。修二会は、修正会とほぼ同義で、新年を迎えるに当たっての法要ということになるようです。「お水取り」と呼ばれるように、若狭井から汲んだ水を香水とする段取りがあり、テレビ的には、回廊の巨大な籠松明から降りそそぐ火の粉を、集まった人たちが浴びている映像が定番ですよね。

国家安泰という律令の国分寺総本山らしい大義名分があり、礼堂を結界しての加持祈祷でもあり、松明を振りかざすのは、山岳仏教としての修験道ともつながっているようです。

山の宗教  修験道案内 (角川ソフィア文庫)

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([この部分、勘違いがあり書き直しました。]と同時に、二月堂の本尊は観音様で、西国巡礼がそうであるように、観音の救いを得るために身体を張って罪を懺悔するという考え方がある。東大寺の修二会はそうした「観音悔過(けか)」の作法が中核になっているようです。)

西国巡礼の寺 (角川ソフィア文庫)

西国巡礼の寺 (角川ソフィア文庫)

また、年の初めに、異形の風体であたりを駆け回って穢れを払う儀式は、巡り巡って民間信仰と習俗して、節分の鬼追い(「鬼は外、福は内」)とも関連があるみたい。

(そういえば、今年の節分で恵方巻きが全国的に広まっていることが話題になり、関西の風習に、コンビニ等の食品業界が乗っかったのだ、などと言われていましたが……、鬼を豆で追う習慣が下火になった年に巨大な災禍が起こり、新しい習俗を仕掛けた首都圏の当のコンビニが品薄になってしまいました。あれはきっとオニが[……以下、風説の流布と思われるので数行削除]。)

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東大寺の修二会に関心を寄せた作曲家は少なくないようで、特に戦後は、新たに作曲するよりも、修二会の実際の法要の音を素材とする例がしばしばあるようです。

(生音を録音・編集するタイプの作品が出てきたのは、1950年代が、いわゆる電子音楽の「磁気テープの時代」だったこともありますが、それだけでなく、日本のラジオ・テレビ放送では、季節ごとの寺社行事の中継が、技術的な挑戦という意味をこめつつ黎明期からさかんだったようです。

第二次大戦中の総動員体制下では、天皇制は20世紀の律令だ、と言わんばかりに、盂蘭盆の法要などが各地から生中継されていたそうです。おそらく「行く年来る年」の中継番組はこのあたりに由来するのでしょう。また、佐藤卓己の説では、「終戦=1945年8月15日」の神話は、戦時中からの恒例行事だった盂蘭盆法要の中継番組と、ラジオによる玉音放送が、いわば「習合」した一面がありそうです。戦後の作曲家たちが修二会に関心を寄せた背景には、昭和前期から法要番組が恒例行事化しているメディア環境があったのかも。……カルスタな人たちが嬉しい「創られた<お水取り>神話」になってしまいますが(笑)。)

八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学 ちくま新書 (544)

八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学 ちくま新書 (544)

松下眞一には、お水取りの音を使ったテープ音楽があるようです。

大栗裕は、こうした「トレンディな」トピックに微妙に乗り損ねる才能があった人であるらしく、青衣の女人伝説によるヴァイオリン曲を1962年頃書いただけです。

1960年の「おに」という歌劇は、中沢昭二の台本による民話調で、節分の鬼追いとは結びついていません。(1965年の関西歌劇団による再演は、ストラヴィンスキー「エディプス王」(日本初演)と二本立てで、演出は、先頃亡くなった茂山千之丞さんでした。ギリシアと日本の神話的存在を扱う作品を並べるプログラムではありますが、それは興行元による後付けで、作品自体は、おにと村人の交流を描くハートウォーミングな昔話になっています。)

ほかには、1968年の管弦楽曲「呪」というのがあります。山歩きが好きだった大栗裕が、修験道の始祖とされる役小角に思いを馳せた作品です。興味深い曲ではあるのですが、1968年と言えば学生運動で騒然としていた時期です。お水取りのことはおそらく作曲者の念頭になく、むしろ、修験道を、南都のアカデミックな国家仏教と対立する行動主義と見ていたのではないでしょうか。

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一方、柴田南雄は、東大寺の修二会にひどくご執心だったようです。「修二會讃」というシアター・ピースに結実する彼の修二会体験は、例によって『日本の音を聴く』所収の文章で冷静に報告されています。

日本の音を聴く 文庫オリジナル版 (岩波現代文庫)

日本の音を聴く 文庫オリジナル版 (岩波現代文庫)

読み返して私が興味深いと思ったのは、東大寺の修二会の六時法要をローマ・カトリックのミサになぞらえていることです。

修二会には、お水とりや籠松明といったミステリアスでスペクタクルな要素もありますが、行事のコアになるのは、11人の練行衆が連日、礼堂に篭もって続ける悔過法要で、柴田南雄の作品は、(舞台周囲の女声合唱がそれを相対化する、彼らしい周到な仕掛けを用いつつ、)声明の素材を舞台上で男性がシアターピースするようです。

奈良は日本のローマであり、東大寺は日本のヴァチカンであり、修二会は和製カトリックの典礼である、と。

(1970年代にこのような作品が生まれたことをどのようなコンテクストで読み解くか。是非とも、どなたか、柴田南雄をこそ「カルスタ」して欲しいと思っております。)

[3/23 追記]

柴田南雄が自著でも紹介していますが、『東大寺修二会観音悔過』という6枚組のLPがあります(ビクター、1971年)。柴田南雄と暁星学園の同級だった横道萬里雄(と佐藤道子)の詳細な解説書がついた昭和46年度芸術祭参加作品です。大学にあったので、内容を確認してみました。

柴田南雄は、自作「修二會讃」について、「三月七日の「初夜」、その主として一九七三年の上演を基本とする」としたうえで、以下のように書いています。

「悔過[けか]作法」「大導師作法」の中からまず主たる五つの部分をとり上げ、声明の旋律形態や構成はできるだけ忠実に原形を保ち、これを男声のパートに託した。五部分の抜粋は、ミサの音楽が長大なミサ典礼文の中から「キリエ」「クレド」など五つの章を抜粋して歌うのと形の上では通じていよう。(『日本の音を聴く』岩波現代文庫版、244頁)

でも、この説明は、故意に言い落としていることがあるように思います。

まず、1日6回(六時)の法要のうち、一番大掛かりな「初夜」とそれに続く「半夜」では、前年の罪を悔いる「悔過」と、新年の祈りを捧げる「大導師作法」のあとに、場を結界する「呪師作法」が続くのですが、これがざっくりカットされています。(自作解説には、「呪師作法」という言葉すら出て来ません。)

それから、5つのパートの構成は次のようになっていますが、

  • 南北問合、供養文、如来唄、散花
  • 呪願
  • 称名懺悔
  • 宝号(以上「懺悔作法」より)
  • 貝と三礼文、神名帳(以上「大導師作法」より)

「大導師作法」を1つのパートに詰め込んだ結果、三礼文が最後に来ています。三礼文や発願ではじまって、回向で終わるのが多くの宗派の法要の形で、東大寺修二会の「懺悔作法」や「大導師作法」もそうなっているので、三礼文が最後に来るのは、ちょっとバランスが悪いように見えます。

もちろん、ミサの通常文も「最後の晩餐」を反芻する聖餐式の過不足のないダイジェストになっているわけではないですが、この構成だと、聖体拝領のあとで入祭唱へ戻ってしまうのに似た違和感が生まれるのではないか、と心配になってしまいます。

よくみると、「懺悔作法」は、前半だけを使っています。「宝号」の直後に行われる五体投地の荒行を作品に採り入れたくなかったのでしょうか。

同様に、「大導師作法」は、国家仏教であることがはっきりする祈祷の部分が使われていませんね。

「呪師作法」をカットしていることや、異形で大松明を操る達陀(だったん)には目もくれようとしていないことを考え合わせると、平均的な昭和後期の日本人に違和感を与えそうな鎮護国家の祈祷と修験の荒行、呪術の要素を取り除いたと見ることができそうです。

自作解説は、次のような文章で終わっています。

ともかく東大寺とその修二会とは、きわめて日本的な存在ではあるが、その根元的な思想が中国やインドのみならず、遠く西欧の古代や近世とも何らかの意味で関わりを持っているということは注目に値する。このことはまた、『華厳経』の表現である。かの壮大な盧舎那仏や修二会の開放的な様相ともよく一致するように思えるのである。(228頁)

でも、上記LPのタイトルは「観音悔過」となっていますし、佐藤道子の解説によると、修二会本行は、前半7日が二月堂本尊の大観音の法要、後半7日は、秘仏の小観音の法要と伝えられているそうです。「悔過作法」は般若心経を唱えます。東大寺は華厳宗の本山で、たしかに礼堂を荘厳する段取りもあるようですけれど、修二会は、必ずしも華厳経を中心に据えた法要というわけではないように見えます。

柴田南雄は、東大寺の修二会の実態を飛び越えて、南都の華厳をローマ・カトリックに並び立たせたい意向が強く、悔過を観音信仰に結びつける発想はなかったようです。(崖の上という二月堂のロケーションは、平地の大仏殿とは意味合いが違って、これも、実はむしろ西国巡礼の観音様の安置場所に似ているかもしれないのですが……。)「修二會讃」は、日本のカトリックとしての華厳、という思い入れに沿って編集・整形・美化された、「あらまほしき修二会の姿」なのかもしれませんね。

なお、横道萬里雄は上記LPの解説で、修二会の声明が口伝えで伝承され、声の高さや動きの幅を正確に規定されているわけではないことに注意を促しています。(博士が伝えられてはいますが、そこからピッチを算出できるようなものではないようです。)

一方、柴田南雄は「音楽の骸骨」の人ですから、シアターピースするときに、男声の声明を重ね合わせたり、そこに女声が舞台の外から介入するときのピッチの配合を正確に塩梅しているはずです。柴田南雄の「修二會讃」は、音程を特定せずに書き継がれてきたネウマに譜線を引いて、ユダヤ伝来の聖歌とギリシャ風の数比論を合流させたグィード・ダレッツォに似たことをやったと言えるかもしれません。たぶん当人にも、その自負はあったでしょう。

初演時には、横道萬里雄に合唱団の発声や所作を助言してもらったようです。でも、もし所作と声が交錯する儀礼の特性に着目して、こちらを主にする舞台パフォーマンスを構想したら、柴田南雄がやったのとは全然別の方向から修二会を讃えることができるかも。

1971年のLPは、録音とともに儀礼の詳細を記述した解説書がついていて、映像なしに、音と文字でパフォーマンスの詳細を記録する一昔前のやり方に、かえって迫力を感じました。

[追記おわり]

[3/25 追記2]

柴田南雄のシアターピース全般に関わることを、あと2つ、簡単に指摘しておきます。

ひとつは奥様、柴田純子さんの役割について。

『日本の音を聴く』の創作記録を読むと、「念佛踊り」の採譜を奥様がお手伝いしたこと、「宇宙について」のテクスト選定を奥様が受け持ったことなど、シアターピースの創作で、純子さんがアシスタント的な仕事をしていたことが報告されています。私は、音楽を個人が独力で創らなければならないとは思いません。しかも、シアターピースには、アマチュア合唱のメンバーが、ただ歌うだけでなく、音楽文化について教養を深めて欲しいという思いがあったようです。音楽的教養のコミュニティの再構築、当世風に言えば、「コモンズ」をめぐる議論にも通じるところがあるかもしれません。

創作が複数の人間の共同制作であり、創作工房における最小単位(夫婦二人)の「コモンズ」が合唱団へ広がり、さらに、会場の聴衆へ広がっていく。そういうヴィジョンがシアターピースにあったとしたら、むしろ、とても美しい提案だと言えるかもしれません。

ただ、もしそうだとして、どこかすっきりしないのは、奥様との役割分担の境目がよくわからないからだと思います。

奥様は、資料を集めて、形を整えるところまでがお仕事で、その取捨選択・編集・構成は、夫・柴田南雄の専決事項になっていた……。柴田南雄の創作ノートは、そのような分担を示唆しているようにも読めるのですが、でも、本当にそんなにすっきり分けられるものなのか? どういう資料を集めるか、という初動の判断が、最終的な作品のアウトプットに影響を与えることがありえたのではないか。むしろ、そういう共同作業ならではの現象が、部分的にではあれ起こっているのが、彼のシアターピースの特徴なのではないかとも思われます。

「修二會酸」が現在の形になった経緯を推測しようとするときにも、素材の取捨選択を柴田南雄の「意志」と決めつけていいのかどうか。ちょっと、よくわからないところがあります。

もうひとつは、採譜の問題。

「修二會酸」の声明は、漢字で詞章を示して、その下に五線譜+ひらがらの譜面があり、なおかつ、「最後には、五線譜をはなれ、上段の漢字のみで歌えることが望ましい」というのが、作曲者の要望だったようです。作曲家が、五線譜上のピッチの塩梅に専念しているのは明らかなのだけれども、歌い手には、最終的に五線譜を意識しないで欲しいと要望しているわけです。

この作品の次に、隠れキリシタンのオラショを取材した「宇宙について」が制作されますが、今度は楽譜の序文に次の但し書きがあります。

「おらっしゃ」の採譜を、いかなる形にせよ、引用することをお断りする。この採譜の方法は合唱団が歌うためのものであり、従ってこの曲の中でのみ、存在の意味がある。論文などの中にこの楽譜を引用した場合、誤解を与えるおそれがある。

合唱曲のなかで、作曲者と歌手は五線譜化したオラショを取り扱っているのだけれども、その五線譜は、合唱曲の外部へは、いわば「門外不出」であるというわけです。

作曲家・柴田南雄が五線譜を操作する人である、という事実は常に揺るがない。ただし、五線譜が「危険な技術」であることを作曲者は十分に自覚しており、五線譜の有効範囲は、演奏者(ユーザー)への指令・マニュアル、要望・お願いという形で制御されて、民俗素材については、しばしば「五線譜への摂取制限」が含まれています。これが、五線譜を「平和利用」する彼のシアターピースの基本スタンスだったようです。

演奏者への指令・マニュアルは、作品毎にそれぞれよく考えられているとは思いますが、作曲家による「中央制御」という大枠は、頑として維持されています。

残念ながら、現実の世界では「中央制御システムの失調」という事態が起こりうるようです。そのような場合の「緊急指令」はどのように機能するものなのか? 今、さまざまな試行錯誤が現実に日々実行されており、行政組織上のトップにいる人は、旦那様とともに奥様の個性的な振る舞いを取り沙汰されたこともあったわけですが……、柴田南雄の美しい統治モデルについて、これから世の中が落ち着いたら、当時の知的ジャーゴンだった「間テクスト性」でブラックボックスに押し込めてしまうのではなく、様々な見方が出てきていいかもしれませんね。

(中央制御メディアを結果的、なし崩し的に補完しているかもしれない現行のコンピュータの情報網が、元をたどれば、米軍の分散型ネットワークの技術を民間に開放・拡張した結果なのだというよく知られた事実などを参照しながら……。)

[追記2おわり]

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原発をめぐるあれこれ、「放射能への畏敬と畏怖」という20世紀が生み出した新種の宗教感情(ノーベル賞作家の大江健三郎が文学的想像力の源泉としたような)については、何が風説で、何が信頼しうる情報なのか、新しい事態が刻々と起きながらも、状況を少しずつ仕分けることができるようになってきつつあるようですが……、

片山杜秀の本(1)音盤考現学 (片山杜秀の本 1)

片山杜秀の本(1)音盤考現学 (片山杜秀の本 1)

大江健三郎・芥川也寸志のオペラ「広島のオルフェ」に潜むナルシシズムを喝破したエッセイが含まれている。それにしても、大阪音大のザ・カレッジ・オペラハウスによるこのオペラの音源・映像が一般には入手不可能な状態なのは残念なことです。

黒い雨 (新潮文庫)

黒い雨 (新潮文庫)

今改めて、被爆者差別を扱った小説として読み直すことができるかもしれない、と囁かれつつあるようですね。そして小説内には、印象的に蓮如上人の「白骨の御文章」が響きます。武満徹が音楽を担当した今村昌平の映画を現在の状況で見るとどのように感じるか、不謹慎と言われようとも私は是非観ておきたいと今思っているのですが、これもDVD化はされていないようですね。

思えば阪神大震災のときには、しばらくして、心のワキバラの隙を突くようにして、首都圏で、新興宗教団体による毒ガス・テロが起きました。

当時、阪大の研究室のカルスタ大好き院生たちは、自分自身がその振動を地続きの場所で受け止めたはずの地震よりも、マス・メディアが報じる首都圏の騒動のほうにより強い関心を抱き、浮き足立っていました。私は、その心性がどうにも理解できませんでした。あれは、何だったのか?

(参考:終末論的な世界認識には必ずしも賛成ではないですが、「天災」と「人災」が複合した場合の人の心の動きについての考察。加えて、過剰な清潔志向への異議。)

「天災」には誰も抗議ができないけれども、「人災」には徹底的に怒りと攻撃を加えるという人の心の動きが共通して見られる。」

「9.11」と「 3.11」/雑感: 短信

その後オウム真理教は徹底的に弾圧されて、テロリズムへの処罰を越えて「宗教は恐い」という漠然とした風潮が生まれて宗教学者へのバッシングが起きて、文系大学院生たちは秋から放映された新世紀エヴァンゲリオンを契機にヴァーチャルな「クール・ジャパン」へ転進していきましたが、

A [DVD]

A [DVD]

世の中は、合理主義だけで突っ張ることができる強い人間ばかりではないのは歴然たる事実ですし、不可知の領域に思いを馳せる広い意味での「宗教」がなくなることはないのでしょう。

(それに、アメリカが自由主義のユートピアであるとか、ヨーロッパが合理主義のユートピアであると信じている人は、子供や若者(欧米を目の敵にする反転したユートピア信者を含む)はともかく、オトナの中では、もうそれほど多くはないはず。自由と合理精神を完徹できない祖国ニッポンに劣等感を抱いて、非合理的な習俗一切から目を逸らす、という鬱屈した態度の必要性は薄れていると思われます。)

でも、不可知の領域と現実とを紐付けるやり方がいいかげんであったり、故意にねじり曲げた教説を作為すると、たちまち、現実のほうでやっかいな問題が起きる。

90年代の日本には新宗教ブームがあったと言われていましたが、上で述べた大栗裕や柴田南雄の作品は、もうひとつ前の時期の宗教熱、60年代の「祝祭」が終わったあとの1970年代オカルト・ブームと広い意味では無縁ではないのだろうと思います。

この話もまた、考えていくと長大になりそうなのでここで打ち切りますが。

不可知・不可抗力の淵に立ってしまったときに、人の心は何をどのように服用するのか。きっとこれから、ゆっくり時間を掛けて、取り組むべき課題のひとつになるのだろうと思っております。

(まさか、事態が落ち着いたら、芸術選奨文部大臣賞の渡辺裕先生が、劇場こそコミュニティの拠点だと説く平田オリザ氏と一緒に、『歌う国民』で全国にコミュニティ・ソングの功徳を布教行脚して回る、ということはないですよね。天から見えないものが降り注ぐのは、あまり嬉しいことではない。そして中央の人が推奨するタイプの地域コミュニティ論が胡散臭いのは、それが原理的に、天から降りてきたものでしかあり得ないからなのだろうと私は思っております。)

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先ほど見直して、最後のスペクタクル・シーンは、今の状況で、テレビ局だったら放映を自粛する性質のものだと思いました。でも、渡辺先生には、『歌う国民』を上梓する前に、この映画で天から何が降ってくるか、そして「崇拝の歓呼」と広場の群衆による大合唱がどのような結末にたどりつくか、見ておいていただきたかったように思います。群衆の歓呼を受け入れるところで止まってはいけない。その先が問題なのだと、私は思います。

補足:そして昼下がりのOLさんは、天から何かが降っているとしてもお昼ご飯を食べ続ける。(^^)