文楽と歌舞伎に「血縁」はあるか? 能・狂言と文楽・歌舞伎に関するノート

[論旨がわかりやすいように小見出しを追加。それにあわせて記事のタイトルを変更しました。]

[↓文楽の「人形」問題の広がりを考えるとしたら、ご紹介すべき本はこちらかなと思ったので差し替え。8/28]

人形記―日本人の遠い夢

人形記―日本人の遠い夢

ひとつ前のエントリーから真ん中の部分を分離しました。せっかく勉強したので、自分自身のための心覚えです。

1. 狂言から藤十郎へ、謡曲から義太夫へ

狂言は中世発祥とされますが、伝承された狂言本の成立年代から考えると、テクストやレパートリーが確定して「古典化」したのは徳川時代初期ということになるようです。歌舞伎踊りや操り人形を伴う浄瑠璃などの新しい藝能が出てきたことと、一つ前の藝能が「古典化」するのが同時期なのは偶然ではなさそうな気がします。

狂言集 (新編 日本古典文学全集)

狂言集 (新編 日本古典文学全集)

小学館の狂言集は、収録作品数は40編と少ないですが、茂山千之丞さんがかつて語り下ろした茂山家の現行の上演台本なのだそうで、実際の舞台に関する情報が充実しています。本文は、新編も1973年の旧版と同じ。旧版は新作狂言「濯ぎ川」が入っていたりして、むしろこっちのほうが戦後の狂言ブームの動向を伝える資料価値が高そうな気がします……。狂言諸本の系統などの説明も旧版のほうが丁寧。
狂言記 (新日本古典文学大系 58)

狂言記 (新日本古典文学大系 58)

岩波の日本古典文学大系も、新版は三流系ではない読み物風の「狂言記」(1660〜)に差し替えられていますね。旧版は、大蔵流大蔵虎寛本系統の初代山本東次郎の写本(幕末から明治)が底本だったのに。(一方、小学館の狂言集は、同じ大蔵虎寛本系統の茂山家の本。)岩波は、岩波文庫に入っていた大蔵虎寛本(1792)もずっと絶版のまま。ちなみに、狂言を7種(脇狂言・大名狂言・小名狂言・聟女狂言・鬼山伏狂言・出家座頭狂言・集狂言)に分類する習慣は虎寛本などの分類を踏襲しているようです。
大蔵虎明能狂言集―翻刻 註解 全二冊

大蔵虎明能狂言集―翻刻 註解 全二冊

そして現存最古の完備する狂言台本は大蔵虎明「狂言之本」で、これが1642年、ということらしいですね。

四条河原の出雲阿国の頃から、歌舞伎には狂言師(大蔵・和泉・鷺の本流の人たちではなかっただろうと言われている)が出ていたようで、藤十郎の時代になっても、歌舞伎の演技は狂言の影響下にあったと推測したほうがいいみたい。藤十郎歌舞伎を試験的に復元した試みを、下の本の付録DVDで観ることができます。

元禄上方歌舞伎復元―初代坂田藤十郎幻の舞台

元禄上方歌舞伎復元―初代坂田藤十郎幻の舞台

日本の語り物藝能が近世になって海の向こうから伝わってきた三味線という闊達な楽器を得たこと(=音曲の充実)、そして浄瑠璃姫の物語で説経節のような本地物からの新たな展開を見いだすとともに、操り人形(淡路もしくは西宮の戎回しが由来とされて、中世以来の傀儡師の姿が垣間見えますが、ここはかなり微妙で難しい問題をはらむみたい)と結び付いたこと(=視覚要素の獲得)はとても大きな転機だと思いますが、その浄瑠璃語りは、竹本義太夫にしても、その前のいわゆる古浄瑠璃でも、語り口を多彩にしたり、床本の朱などで語りを体系化するときに謡曲を参照した形跡があるようです。(19世紀に歌舞伎が松羽目物で「古典劇」化を模索するより200年前のお話です。)

浄瑠璃と謡文化 ― 宇治加賀掾から近松・義太夫へ

浄瑠璃と謡文化 ― 宇治加賀掾から近松・義太夫へ

謡曲などの従来からの支配層の「うた/こえ」(日本の「うた」は西洋流の狭義のメロディー=音の抑揚というより、ヒトが発する「こえ」そのものを指していたようなところがあるみたい)を取り込みながら、中世史でとても大きな問題として論じられている非人の藝が流れ込んで、しかも語り物という神仏習合の宗教的背景を背負った叙事文藝の大きな流れのなかにあって、人形浄瑠璃は面妖なものだと思います。

中世から近世へ受け継がれたものを「無音の」文献から仮説的に推測する作業は、なんだか西洋音楽における「古楽」の挑戦に似ていて、興味深いですね。

「文楽」の歴史的な意義というのも、国が法律を作ったり、先の戦争の戦勝連合国(「国連」って要するにそういう組織ですよね)の認定を得たからといって、それが万能のお墨付きである、と安心できるわけではもちろんなくて、まだ色々、研究・探索できる余地がありそうです。

(これがヨーロッパだったら、一人遣いの人形と組んで、古浄瑠璃や近松門左衛門のオリジナル・テクストを復活上演する「平成竹本座」を結成する人が出てきそうなものですが、そういうものでもないのでしょうか。)

2. 人形愛、サブカルチャーとしての文楽

さて、しかし人形浄瑠璃には、こういう風に古典藝能の系譜を作図するだけではすくいあげることのできない「何か」がありそうです。自身も「変態」(それは世紀転換期風の「悪魔的」藝術家という意味を含む)だった谷崎潤一郎は、「蓼喰う虫」に、文楽人形に理想の女性像を見て、若い娘を文楽人形のように調教する老人を登場させています。人形浄瑠璃には、「人形愛」という通常の古典藝能史を食い破る欲動が介在しているのではないでしょうか。

蓼喰う虫 (新潮文庫)

蓼喰う虫 (新潮文庫)

やや話が飛躍すると思われるかもしれませんが、文楽への人々の熱狂は、現代でいうと、なし崩し的に子供の娯楽と言って済ませることができなくなっているサブカルチャーとしてのジャパニメーションに似たところがあったんじゃないかと私は前から思っています。

(武智鉄二をはじめとする昭和初期の青年が文楽に夢中になったのは、現代のアニオタが声優に萌えるのに似たところがあったと私は思っています。人形劇やパラパラ漫画は、人間の「こえ」によってアニマ(魂)が吹き込まれる。彼らは、そこに魅了されていたような気がします。

そして今でも、支援者の方々の反応は、しばしば、輿論public opinion的というより世論popular sentiments的にヒートアップするところがある。理性というより、情のレヴェルで人を魅了する藝能なのかもしれません。)

戦後世論のメディア社会学 (KASHIWA学術ライブラリー)

戦後世論のメディア社会学 (KASHIWA学術ライブラリー)

輿論と世論―日本的民意の系譜学 (新潮選書)

輿論と世論―日本的民意の系譜学 (新潮選書)

道頓堀竹本座の「出世景清」(近松門左衛門作、1685年←バッハやヘンデルが生まれた年!大坂の人形浄瑠璃はここから百年後の近松半二の死(1783年)までが、新作を続々と生み出す最盛期とされるようです、ヘンデルからグルック、モーツァルトまでの宮廷イタリア・オペラの全盛期とほぼ時代が重なるんですね、人形浄瑠璃はイタリア・オペラのような貴族の娯楽じゃないので、パリのオペラ・コミックやドイツのジングシュピールに近いかもしれませんが)から300年経った21世紀に文楽をどう扱ったものか、と思案するのは、300年後の時代背景や何かが簡単には通じなくなった人たちに手塚治虫や宮崎駿をどういう風に扱って欲しいか、伊福部のゴジラや実相寺のウルトラや安彦良和のガンダムをどう語り伝えるのか、という問題に通じるのではないかと思うのです。

女優マルキーズ [DVD]

女優マルキーズ [DVD]

マルキーズ・デュ・パルクが娼婦まがいの芝居小屋の踊り子から宮廷劇場に成り上がるお話。劇場は、どこの国でもたいていパトロンへのアフター・アワーズでの接待がついて回るようです。
元禄文化  遊芸・悪所・芝居 (講談社学術文庫)

元禄文化 遊芸・悪所・芝居 (講談社学術文庫)

そして守屋先生の所見によると、劇場とセクシュアリティの親和性という一般論だけでなく、元禄時代は、生活に余裕のできた大坂の新興町人が台頭して、彼らが、それまで豪商と支配階級の専有物だった遊里での「快楽としての性」を知ってしまった時代である、ということになるようです。遊里が「悪所」という本来仏教的な意味合いをもっていた言葉で形容されるようになるのは、「快楽としての性」が、新興商人たちのせっかく築き上げた「家」(子作りとしての性だけがあった)を崩す危険な存在と考えられたからではないか、というのが守屋先生の考えで、こんな風に、仏教的な文脈を離れて、世俗的な不道徳を「悪」と形容するのは、元禄期の新しい用語法である可能性が高いようです。

だとすると、ひたすら廓での恋を描く近松の心中物は、最新の社会問題を扱っていたことになるのでしょうか。

もちろん、近松門左衛門は心中物だけを書いたわけではありませんし、夕霧などの廓ものは、その前から歌舞伎で人気の出し物だったわけですが、文楽といえば近松で心中物だ、ということでいいのかどうか、それでいいのだとして、それは「古典」と言えるのか。こういうものだ、と丸呑みにするのではない議論が色々あってもよさそうな気がします。

文楽を国立の劇場で上演するところへ押し上げる際の強力なイデオロギーだったと思われる「古典藝能」というカテゴリーに過不足無く収まるんだったら話は簡単だし、逆に常に流転変遷する遊芸娯楽だ、と片づけることができるんだったら楽なのだけれど、大江戸歌舞伎のように、近代になって「旧劇」との批判にさらされながらも「国劇」としての地位を確保できるように積極的に動いたわけでもなく、松竹のような近代の大手興行資本が切り盛りしようとして結局上手くいかなかった経緯もあって、色々なことがすっきり割り切れないのが「大阪の文楽」なんだろうと思います。ノーベル文学賞を受けた人に「美しい」と形容してもらえる「日本」の代表というのとズレたところにあって、そこが、ノーベル文学賞をもらわなかった大作家に「痴呆の藝術」という絶妙のキャッチコピーを与えられた所以ではないか。そういうどっちつかずのポジションで踏ん張るのが「大阪の文楽」なんじゃないか、と思ってしまうのです。

3. ナショナルシアターへの道

では、そんなサブカル成分を多量に含んだ文楽が、どうやって「古典」の地位を獲得したのか?

文楽 二十世紀後期の輝き―劇評と文楽考

文楽 二十世紀後期の輝き―劇評と文楽考

内山先生のハードな論理構成の劇評を読みながら、文楽劇場ができた1984年にはまだ武智鉄二も元気だったんだ、と気付いてハッとしました。彼は文楽劇場をどういう風に見ていたのでしょう?

国立文楽劇場がオープンした当初は夏休み期間に子供向け新作人形劇を制作していたのを、内山先生の当時の劇評で思い出しました。

また、内山先生の早稲田退官記念の批評集は、80年代的な消費文化(もしくは文化の消費?)に文楽が巻き込まれていた様子を意図せずして伝えてくれているように思います。

国立文楽劇場ができたのは、大阪府が新しいオーケストラを作ったり、朝日放送やサントリーがおしゃれなコンサートホールを建設したり、海外有名歌劇場の引越公演が毎年のように行われたり、野球場でオペラやったりしたのと同じ1980年代の文化現象という側面があったのは否定できないかもしれません。メインカルチャーとサブカルチャーの境目を曖昧にする80年代の追い風がなければ、サブカル成分の多い文楽が「古典」の地位を確立することは難しかったのではないかと思うのです。

そしてこの頃から吉田玉男がどんどん偉くなって、2003年には古典藝能では初めて京都賞(映画・演劇部門)を受けます。(その次に古典藝能から京都賞を受賞したのは2011年の坂東玉三郎。京都賞の他の部門に比べて、古典藝能関係の人選は「スター志向」ですね(笑)。国際賞という以上に、在野が国の褒章制度を補完する意味合いが古典藝能については強いような気がします。ここにも、若干バブルの残り香がありそうです……。)

NHKスペシャル 人間国宝ふたり ~吉田玉男・竹本住大夫~ [DVD]

NHKスペシャル 人間国宝ふたり ~吉田玉男・竹本住大夫~ [DVD]

2001年制作。既に引退している越路大夫が住大夫に「河庄」の稽古をつけて孫右衛門の台詞を語ってみせる場面があり、素人目にも、この人は格が違うんだろうなと思わせられます。
人形浄瑠璃文楽名演集 通し狂言仮名手本忠臣蔵 Vol.2 [DVD]

人形浄瑠璃文楽名演集 通し狂言仮名手本忠臣蔵 Vol.2 [DVD]

昭和30年の吉田玉男のダイナミックな平右衛門(大夫がどんどん先へ語って人形が動く動く)と、昭和60年の由良助のカックンと脱力する酔っぱらいぶりを見比べることができるお得なカップリングのDVD。昭和30年公演は松竹時代末期で分裂していた因会と三和会の芸術祭合同で、豊竹山城少掾が由良助を語っていたり、なんだかもの凄いです。

4. 文楽・歌舞伎の「創られた」様式美

あと、これは「創られた伝統」の論法になってしまいますが、歌舞伎や文楽には様式美があり、様式美がこれらの芸能を「古典」たらしめている、という言い方、古典藝能を「様式」で見る、という視線は、たぶん、近代の産物なんでしょうね。

演者たちの口伝情報であった演技の「型」という概念が観客に広まったのは、おそらく明治以後ではないか。具体的に実証するのは大変な作業だと思いますが、たとえば、昨年出版された矢内賢二さんの博士論文は、明治期の歌舞伎ジャーナリズムを分析して、歌舞伎の舞台を「型」概念で分節する視線の成立を歌舞伎雑誌から読み取ろうとする意図でなされた研究だったのだろうと思います。

明治の歌舞伎と出版メデイア

明治の歌舞伎と出版メデイア

義太夫節の「風(ふう)」も同様で、大夫の口伝情報であったものを様式記述のキーワードとして本格的に用いたのは杉山其日庵(茂丸)『浄瑠璃素人講釈』(1926)から、さらに言えば、この知る人ぞ知る存在だった書物を高く評価して、「風」概念を縦横に使って評論を展開した武智鉄二の世代から、ということになるようです。時期としては、松竹が興行権を手に入れて、四ツ橋に文楽座を開いた頃。文楽に「古典」としての風格を与えるための理論武装がものすごい勢いで進んでいた時期のことです。

浄瑠璃素人講釈〈上〉 (岩波文庫)

浄瑠璃素人講釈〈上〉 (岩波文庫)

歌舞伎に一歩遅れて、文楽は昭和初期にサブカルからメインカルチャーへの昇格を果たした印象があります。そして文楽に関する理論武装の急ごしらえ感は、ここ10年くらいの漫画学の急成長に近いものがあるように思います。

二世豊竹古靱太夫(山城少掾)義太夫名演集(DVD付)

二世豊竹古靱太夫(山城少掾)義太夫名演集(DVD付)

  • アーティスト: 豊竹古靭太夫(二世),竹本錣太夫,豊澤燕太郎,竹本静太夫,豊竹島太夫,鶴澤芳之助,鶴澤清六,鶴澤重造,豊澤新左衛門,竹澤団六
  • 出版社/メーカー: 日本コロムビア
  • 発売日: 2010/11/27
  • メディア: CD
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そして大正から昭和初期にかけて、大阪の好き者のレコード店が義太夫節のSPを大量に作りました。文楽は「聴く」ものである、として大夫の名演が伝説となり、旦那衆の間で義太夫を習うのが流行して、通人たちが義太夫を熱く語ったのは、レコードという新しいメディアの登場と不可分だったのではないかと思われます。1878年生まれの豊竹古靱太夫(のちの豊竹山城少掾)は、クラシック音楽でいえば1873年生まれのエンリコ・カルーソーと同世代です。彼はSPレコードが生み出したスターだったのかもしれません。

そしてこういう経緯をふまえると、昨今の騒動はちょっと違った風に見えてきます。

「市長は古典に関する教養が欠けている」という批判があって、そこに「そんなのは当事者意識を欠くインテりの言い草だ」と市長が反論する、という応酬があったわけですが、イマドキのインテリはその種の「古典の普遍性」を信じてはいないので、市長派にも反市長派にも肩入れできないと思うんですよね。だから、その水準で議論するのはもう止めようよ、と小声でぶつぶつ言うしかなくなってしまう……。

市長がポピュリズムの政治家だ、というだけでなく、一連の騒動自体が、既に知的にアクチュアルではない概念を巡ってなされたポピュリズム現象であったかのように見えてしまうところがあったように思います。そこがとても残念でした。

5. 文楽と歌舞伎に「血縁」はあるか?

まとめます。

能と狂言は中世に生まれて、一対の藝能として主に貴族や武家という支配階級に保護され、伝承されてきました。そして人形浄瑠璃と歌舞伎は近世に生まれて、相互に影響を与えながら主に三都の町人に支えられて興行を続けてきました。

でも、それぞれの関係を具体的に探ってみると、人形浄瑠璃は、その語り(いわば音楽的要素)に能の謡いの影響があり、歌舞伎はその演技(いわば演劇的要素)に狂言の影響がある、というように、近世の二大町人藝能が中世の先行藝能を摂取するやり方は違っているんですよね。

現在の視点から見ると、人形浄瑠璃と歌舞伎は共通の演目を多くもち、まるで、徳川期の町人演劇という大きな括りのなかにあり、都市の芝居小屋という「同じ家」で生まれ育った兄弟姉妹、人形による芝居と人間による芝居という同一ジャンルのサブカテゴリーのように見えますが(だからこそ熱烈な歌舞伎ファンの方が「兄弟分(兄貴分?)」である文楽を守らねば」と息巻くわけですが)、裏へ回って中世の側から眺めると、それぞれの出自・来歴は、ちょっと違うところがあるんじゃないか、仮に兄弟姉妹だとしても、腹違いであったり、養子縁組をしたり、という風に、純粋に血縁だけでつながっているわけではない関係であるように思われます。

そういう機微を知っておくことは、それぞれの藝能と付き合ううえで、何かの役に立つんじゃないかと思うんですよね。実は来歴だけでなく、幕末から明治以後に人形浄瑠璃と歌舞伎がたどった運命もまた、微妙に違いがあり、それが今日、話をややこしくしているとも言えそうですから。

徳川期の芝居小屋の藝能といっても、粋で鯔背で宵越しの金は持たねえ江戸っ子さんとはチト違うものがありそうで、私はそれが何なのかということに興味があります。

6. 補足: 国立劇場は文化の中央コントロール・センターなのかパブリック・シアターなのか?

東洋初のオリンピック開催後の東京に国立劇場ができて……、

投機バブルへ至る1980年代の「元禄」になぞらえられることもあった消費文化爛熟期の大阪に国立文楽劇場ができて……。

20世紀後半は「古典藝能」というひとつの塊としての存在感をアピールする戦略が有効な時代だったのだろうけれども、今は、もう一回、個々のパーツをバラしてそれぞれをメンテナンスする頃合いなのかもしれませんね。

生誕100年ということで、「もし武智鉄二が生きていたら……」と言われたりもしますが、もし彼が今生きていたら、東京で結城座の公演に関わったりもしていた人ですから、文楽を現行の形そのままで残せばいい、とは言わないんじゃないかと思う。

そして今週は、国立劇場の委嘱で書かれた雅楽新作が組み込まれたりもしているシュトックハウゼンのオペラがオリンピック直後の英国で上演されたらしいじゃないですか。

今回上演されるのは、かつて国立劇場で初演された「歴年」が組み込まれているのとは別の部分ですが、国家が特定の藝能を「古典」と認定して保護する、というのは、こういう風な「公共圏」へその藝能を登録して、運用していくことだと思います。

ハーバーマス風の枠組みになぞらえれば、古典藝能を国家の文化遺産(広い意味での儀礼)として損得勘定抜きに維持していこうという「代表具現」(平たく言えば国家内外への「みせびらかし」)風の発想がある一方で、そういうことをすれば、そのように陳列され、公開されたものをひょいとすくい上げる動きが国の内外で当然起こる。それが、最近ではグローバリズムと言ってその経済的側面が強調される市民や平民の公共圏であり、国立の劇場を創るというのは、文化資産をそういう風に運用するぞ、と覚悟を決めることだったのだと思います。

ドイツの狂気を秘めた戦災孤児が、畏れ多くも天皇家の楽人たちにあれこれ珍妙な指図をして、奇怪な所作をさせる、などということが起きてしまう。それが、公共のリソースになった、ということだと思います。

雅楽の〈近代〉と〈現代〉――継承・普及・創造の軌跡

雅楽の〈近代〉と〈現代〉――継承・普及・創造の軌跡

雅楽という宮廷の式楽の場合は課題が比較的はっきりしていて、歌舞伎という町人芝居についても、国立劇場には資料調査などをやる部署があり、他方で歌舞伎の興行は松竹なので、ある程度の分担ができている感じですよね。

文楽はそのどっちとも違う形になっているように見えます。

そして何がどうなっているのか、という話と、そのなかで、大阪市が色々な経緯を経て存続している文楽関連の財団に補助金を出す/出さない、の話が、どこでどういう具合につながっているのか。これが、文楽をどうしていくのか問題にとって、どれくらい大きい(もしくは小さい)話なのか。

これまでの騒動では、賛否両論ながめていても、さっぱりわからないままなんですよね。

(1963年、松竹が文楽から手を引いたときに国・地元・放送局等が出資する受け皿として緊急避難的に作られた文楽協会という財団はどのような位置づけとしてはじまったのか、1966年の国立劇場開設、そして1984年の国立文楽劇場開設によって、どのように役割を替え、変質していったのか。具体的な経緯を知りたいです。「天下りの温床」というだけではない色々な歴史がきっとあるはずだと思うし、ジャーナリズムはこの機会にそのあたりをキャンペーン的にアピールするべきではなかったか?

たとえば、冒頭に現代の文楽の舞台裏が出る映画「心中天網島」(1969)だけでなく、カナダのマーティ・グロス監督による「冥途の飛脚」(1979)も、文楽協会が道頓堀朝日座で興行していた時期の仕事ですよね。)

『文楽 冥途の飛脚』(原題THE LOVERS' EXILE)は、1979年(昭和54年)に制作された映画で、日本の伝統文化に深い関心を寄せ、人形浄瑠璃・文楽に魅了されたカナダ出身の映画作家マーティ・グロスが、文楽の演者たちの協力を得て、日本映画を代表するスタッフと共に、近松門左衛門の世界、そして人形浄瑠璃・文楽の魅力に正面から迫った作品である。

主だった出演者全てが、当時もしくは後に人間国宝(重要無形文化財保持者)に認定されており、竹本越路大夫や吉田玉男、桐竹勘十郎(二世)ら、昭和を代表する文楽の名人たちの技芸を映画としてフィルムに残した本作は、貴重な文化的遺産といえる。

撮影は、1979年(昭和54年)の夏、京都・太秦の大映映画京都撮影所に精緻な舞台セットを作り上げて、3週間にわたり行われた。その後、編集作業はトロントのスタジオで行われ、音に関する監修者として日本を代表する作曲家、武満徹も作業に加わった。

1980年(昭和55年)7月、大阪・朝日座に於いて、吉田玉男も舞台挨拶に立って完成披露試写会が行われた。

文楽 冥途の飛脚 - Wikipedia

他方で、「文楽がなくなったら、歌舞伎の義太夫狂言はどうなるんだ!」という感情論はもうお腹いっぱいです。だってそれって、こう言っては失礼だけれども、煎じ詰めれば歌舞伎ファンのエゴじゃないですか。

そしてそのようなご意見は、ひとまず意地でツッパリ、義理人情を重んじているかのようで、東京の文化人が文楽について発言するときには、「止むにやまれぬ思いで一言いわせてもらいます」という所作が入りますが、でも、どうやら東京で文楽を歌舞伎の兄貴分として敬う方々は、文楽が大阪の自治体と縁切りになって、国主導で切り盛りされるようになることをそれほど悪くないと思っている節がある。結果的に、彼らの肩をいからせた物言いは、日本のことは全部、東京でコントロールするから、お前達はもう手を出すな、と言う論調に棹さすことになっているようにも見えてしまいます。

これはこれで根深い問題で、大阪の国立文楽劇場ができる前に、内山美樹子先生が従来から高く評価していらっしゃった国立劇場小劇場(←もともと文楽上演を想定した設計になっているらしい)の文楽への取り組みがあり、事実上の官学民三位一体で文楽の運営が東京主導になる流れには、半世紀近い歴史の積み重ねがあると見た方がよさそうに思います。今回の騒動は、文楽にとって、寝耳に水の一大事というより、既に土台が骨抜きにされてしまっているものに引導を渡す最後のきっかけに過ぎないかもしれない、ということです。

だから、大阪に住んどるモンが、「アンチ橋下」という外ズラにだまされて、そんな話にうっかり乗っていいものなのかどうか。そんな気がするわけです。たぶん東京の文化人は、こういう機微がわからない。

繰り返すが、「鎖国は必ずしも悪ではなかった」とか、農民がどうしようもなく貧しかったというのは嘘だとか、そういう近世の見直しのすべてを私は批判しようというのではない。ただ、問題は文化史や心性史であり、その今日の時点での評価なのである。[……]私は歌舞伎が好きだし、近世文化を否定しようというのではない。けれど、好きとか嫌いとかのレヴェルで、学問をしてはならない。「事実」というのもひとつの幻想かもしれないのだが、だからといって事実に迫る努力を放棄していいというものではあるまい。

江戸幻想批判―「江戸の性愛」礼讃論を撃つ

江戸幻想批判―「江戸の性愛」礼讃論を撃つ

性愛の問題にターゲットを絞って論じているこの本を引き合いに出すのは大げさすぎるかもしれませんが、根本的な疑問として、大江戸歌舞伎ファンの文楽擁護論が、前近代を美化する漠然とした江戸ブームの惰性のような議論に終始するのは寂しい気がします。文楽を江戸町人文化のテーマパークのような水準で擁護するのは、橋下市長の道頓堀プール構想と五十歩百歩の現代都会人の身勝手ではないだろうか。ナショナル・シアターはそんな曖昧な心情のための慰安施設なのか。それは、江戸情緒という幻想に塗り固めることで、かえって劇場へ通う人の複雑な心性を殺菌消毒してしまうのではないだろうか?