オレに関する噂ではない本当の話

もう少し言うと、

  • (1) 「現代音楽」の作曲家が「聴衆や演奏家」のことを何ら顧慮せず、
  • (2) 書きたいものを書きたいように書き、
  • (3) しかも周囲がそれを許し助長したことが、
  • (4) 「現代音楽」の衰退を招いた。

という文は、すべての文肢が疑わしい。

(2) → 「現代音楽」は、時代の要請である、というスローガンを掲げて、自分の書きたいこと/好きなことを封印して、「作曲家の責務」として推進された形跡がある(バルトークや柴田南雄の経歴を見よ)。

(1) → 「聴衆」の少なくとも一部はそのような「同時代性」を歓迎し、後押ししており、「演奏家」、特に戦中・戦後の英才教育で育った新進気鋭は、自らの清新さと優秀さをアピールする手段として、新作演奏に積極的であり、そうやって頭角を表した(太鼓叩きから指揮者に転じた岩城宏之、20歳前後で新作をバリバリ弾いた中村紘子や堤剛を見よ)。

(3) → 同人的な手弁当でスタートした「現代音楽」は、マネジメントやメディアにとって、勢いがあるときにはそれを追いかけ、勢いがなくなったら見捨てればいい「ブーム」にすぎなかった可能性がある。1960年代には、なるほど「波」が来ていたので、作曲家がチヤホヤされたが、たとえばオーケストラは、ほとんどの場合、新作を定期演奏会「以外」の場で取り上げており、自主的に=自腹を切って応援したわけではない。出版社も、特に日本では、「ブーム」に乗ってそこそこ売れるスコアだけを矢継ぎ早に出版し手っ取り早く利益を稼ぐ手法が主であり、パート譜(貸譜)を管理して、大きな利益は出ないけれども細く長く商売して作品がレパートリーに定着する音楽家との共存共栄のビジネスモデルを構築しようとはしなかったらしいことが、断片的な証言などから推察される(かつて川島素晴が「ExMusica」で告発したような、武満徹「弦楽のためのレクイエム」の出版譜をめぐる混乱などを見よ)。「現代音楽」の周囲の商売人は、それなりに「うまくやった」のであって、我が儘な作曲家を甘やかして共倒れ、になどなってはいない(全音も音友も日フィルも1969年設立の東京コンサーツもしっかり存続してるじゃないか)。

(4) → 以上を総括するとすれば、「現代音楽」は、混乱をともないながらも、相当程度に盛り上がっただけでなく、関係者それぞれが、それぞれの立場でブームをうまく乗り切って、この好機を次のステップへ着実に活かしたと見るべきではないだろうか。

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  • (1) 「現代音楽」の作曲家が「聴衆や演奏家」のことを何ら顧慮せず、
  • (2) 書きたいものを書きたいように書き、
  • (3) しかも周囲がそれを許し助長したことが、
  • (4) 「現代音楽」の衰退を招いた。

という文は、「現代音楽」のことではなく、現代音楽にハマってしまったオレの自画像じゃないんだろうか。

「現代音楽は自由だ」と遅ればせながら信じて、いっときは作曲家を志したけれども、「書きたいように書こう」としても、だれもチヤホヤしてくれないし、作曲の勉強をひととおりやってはみたけれども、未だに、新作初演に行くと、いちおう「わかったふり」をするのだけれども、内心ではどうにも腑に落ちないところが残る。(でも、本気で必死に徹底的に勉強する根気と気力と勇気はない。だって、本気で必死に徹底的に勉強して、それでもダメだったときには、「わからない」のは自分がバカで能力がないせいだ、ということになって、自信喪失・この世の終わりだもん。そんなのコワイよ。だから作曲の勉強は、小さな課題を繰り返す「寸止め」の先へは進みません。)……という「永遠の現代音楽少年」は、まずは上記の現実を直視していただきたい。

そのうえで、「お前らだけうまくやりやがって」と、怨恨を上で述べた成功者たちに向けるもよし、「次にどこかでブームが来たら、おれも上手くやってやる、いっそ、オレが風を起こす」とファイトを燃やすもよし。好きにしたまえ。

ただし、西村朗や吉松隆が、まさにそんな怨恨とファイトがないまぜな青春を経て、しっかり「第二波」を起こし、90年代以後の20年で既に荒稼ぎしてしまっているので、「現代音楽」とその跡地でさらに新しい商売をやるのは、相当ハードルが高いとは思うけどね。

(だから大栗裕であり、関東だったら、来年生誕100年になる伊福部昭なんですよ(笑)。ここから眺めると、野原で繰り広げられる合戦を山の上から見物するように、「現代音楽」で蠢く人間群像が、裏も表も、ほんとうによ〜く見える。そしてほかにも、「現代音楽」の古戦場の周囲には、まだ誰も登っていない色んな山があると思うよ。)