イオランタ姫は耳がいい

METライブビューイング最終日。

チャイコフスキーのイオランタって、こういう話だったんですね。盲目のお姫様のお話だとは聞いていましたが、こんなに直球勝負で話が進むとは。白い薔薇と赤い薔薇の場面で身を震わせて号泣(あれは「目の悪い子」が必ず一度は通る人生の試練です)。そして光を歌うデュエットで再び号泣でございました。

目の手術をする医者がムーア人だったり(中世の医学はヨーロッパよりイスラムのほうが進んでいたということですよね)、視覚を得たお姫様がどのように振る舞うか、「モリヌークス問題」もちゃんと扱っている。

お姫様が光を得るだけでなく、その過程ですべての人物が自分らしさを回復して終わるのだから、「目が見える=光を得る=啓蒙」ということだろうと思いますし、これは大げさに言えば、ピョートル大帝以来のロシア欧化政策の精神にチャイコフスキーが連なっているということなのだと思いますが(だからイオランタはチャイコフスキー流の「国民オペラ」なのだと思いますが)、それよりも何よりも、

盲目のイオランタ姫は耳がいい。

だって、前奏のおそらくオクタトニック主体と思われる緊迫した響きが透明な長調になったところで幕が開いて、イオランタは召使いに向かって「音楽は美しいけれど、もういいわ」と言って、自分の心情をロシア民謡のスタイルで語りはじめる。

一方、王子様と出会ったあとで、

(1) 「この世は光で満たされている」 → (2) 「君は輝く光そのものだ」(以上、王子) → (3) 「私も光をこの目で見たい」(イオランタ)

と三段階でたたみかけるデュエット(あとで回想動機として活用される)は、交響曲5番のフィナーレみたいなマーチ調です。

直前まで「目は泣くためにあるの」と言っていたお姫様のこの転回(号泣)。彼女の選び取る音楽(のスタイル)は、常に正しい。

そして常に正しいスタイルを選べてしまう原点は、このお姫様の「耳がいい」ということだと思います。おそらく彼女は、作曲家チャイコフスキーと同等くらい耳がいい。だって耳が良くなければ、その場で鳴っている音楽について、「美しいけれど、もういいわ」と言えるはずがない。

盲目を作曲することはできないけれど、オケピットの音楽をメタフィクション風に批評できてしまう「耳の良さ」によって、このお姫様は特別なんですね。そのことに、何よりも感動しました。

「くるみ割り人形」と同時に初演されたチャイコフスキーの最後のオペラだということも、ゲルギエフによるとロシアではよく知られているらしいということも知らなかったのですが、これはめちゃくちゃ重要な作品ではないかと思います。

王子様が出てくるとウェーバー/グリンカ風になって、男同士の会話は、ほんのりとワーグナー風になって、音楽の豊かさが半端じゃないし、それは、筋がつまらないけれど音楽がいいんじゃなくて、盲目のお姫様の話だからこそ、この豊かさが成立するんだと思います。

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題材の由来は、ちょっとややこしいですね。

ヘンリク・ヘルツの戯曲「ルネ王の娘」(1845)が当時評判になり、そのロシア語訳からチャイコフスキーの弟がオペラ台本を作ったらしいのだけれど、ヘルツの「ルネ王の娘」が「アンデルセンにもとづく」という、あちこちで孫引きされている説明の典拠がよくわかりません。

もしかすると、いわゆるアンデルセン童話ではなく、ヒロインのモデルになったヨランド・ダンジュー Yolande d'Anjou(1428-1483)について、アンデルセンがどこかで何か書いたのでしょうか? ヨランド/イオランタが盲目、というフィクションはヘルツのアイデアなのか、アンデルセンにヒントがあるのか……。

で、オペラにも登場するヨランド/イオランタの父、ルネ・ダンジュー(1409-1480)は、文化史上の有名なキャラクターみたいですね。

シェークスピア「ヘンリー6世」第1部のルネ(レニエ)で、ウォルター・スコット「ガイアスタインのアン Anne of Geierstein」にも登場するのだとか。

スコットの小説が「薔薇戦争」という言葉を広めるきっかけになったらしいという説明がウィキペディアにあって、だとしたら、その娘の部屋に赤い薔薇と白い薔薇があるのは、偶然にしても面白い符合だと思うし、

モンゴメリーの「赤毛のアン」は、「ガイアスタインのアン」というタイトルを意識したと言われているらしい。

ヨーロッパの少女物語(という言葉があるのでしょうか、何と呼べばいいのでしょうか)の鉱脈のひとつっぽいところに、イオランタ姫は生きていらっしゃるみたい。

ネトレプコ様の尋常ならぬテンション(本番直前に舞台上で何故か妖精のように踊ってる姿がちらっと映りましたよね)の源泉は、そのあたりにあるんじゃないでしょうか。私たちにはよくわからないけれど、イオランタ姫は、少女物語界の重要キャラなのかもしれない。

(逆に、後半のバルトーク「青ひげ公の城」は、台本だけで演出しているように見えて苛々した。理屈が色々くっついてああいう演出になったのはわかるが、ゲルギエフが「絵が見えるようだ」とコメントしたバルトークの音楽を、たぶんこの演出家はちゃんと聞き取ることができていない。映画的な視覚イメージの連鎖が上手に組み立ててあって、目は良いのかもしれないが、この演出家は「耳が悪い」。イオランタ姫を見習うべきだ。)