アナロジーの彼岸:「脊髄反射」と信用取引

2015年の日本語ツイッターワールドは「政治の言葉」が乱れ飛ぶ騒々しい仮想の広場(virtual agola?)だったが、2016年にはそれらがあっという間に退潮して、商品の売り手やイベントの主催者が効率良く集めた「生産者の肉声」ならびに「消費者の反応」を散布する広告媒体の性格を強めつつあるように見える。

ネットの「中」での virtual な行動がネットの「外」を動かす、というのではなく、SNSは、real な経済活動を促す潤滑油になった感じがする。

先に私はこう書いたが、

人間の五感は、必ずしも受け身の受容器ではないらしいことを近年の認知理論は主張しているように見えますが、「自らを音をだす耳」や「自ら光を発する目」を私たちは100年前に発明して、一世紀がかりでそのような機械に慣れてきた。この一世紀の経験は、私たちの認知と無関係なのかどうか。

発振する鼓膜と発光する網膜:音響再生産と遠隔視はどのように信頼されているか? - 仕事の日記

思考を介すことなく、あるいは、思考による統制から外れたところで、視覚や聴覚や味覚や触覚が自ら情報を発信するエージェントになる、という行動モデルは、ネット上のコミュニケーションでしばしば言われる「脊髄反射のリアクション」だよなあ、と気がついた。

そしてそのような「脊髄反射」系のコメントもまた「集合知」の名の下に肯定され、蓄積されていくことになるのだとしたら、その場合、「集合知」なる観念には、「主体化した知覚」の肯定=思考主体はそれを自らとは異なるエージェントの働きとして傍受することしかできないのだから、もはや思考主体は何かを自ら知覚することなしに、どこかの誰かが見聞きした脊髄反射に情報としてアクセスしても同じことだ、という割り切りが含まれることになるのかもしれない。

でも、情報器機にアクセスして、見たらすぐに何かを書いてしまう、読んだら何かを言ってしまう、という行動は、よく考えると、神経回路における脊髄の働き(外気や体温が高くなると汗が出るなど)とどこまで似ているのかよくわからない。

柄にもなく現象学的内省を試みるとしたら、

思考主体は、自身の発汗作用を「汗が出た」という結果から事後的に確認する(主体は、これを思考の手前の何らかの部門やエージェントの働きなのだろう、と追認する)ことしかできない一方、ネット上のコミュニケーションで言う「脊髄反射」は、意志の働きによる行動とは言えないまでも、今自分がなにをやりつつあるか、主体がモニタリングしながらの行為ですよね。

そして現象学の有効性を信奉する哲学者であれば、ここからさらに内省を推し進めるのかもしれないけれど、私は内省の有用性をあまり信じない人間なので、「思考がそれをモニタリングしているにもかかわらず、思考の制御が及んでいるとは言いがたい行動」というのがあるらしい、とわかれば十分だと考える。

一方で、上のリンク先のエントリーは、20世紀の聴覚文化論の成果と視覚文化論の成果を組み合わせるモデルを作ろうとして、まだ論証されてはいないけれどもこういうのがあったら上手くいきそうだ、という補助線を引く思考実験をやった。現象学とは全然別のアプローチなので、この2つを安易に組み合わせていいのか、定かではないけれど、

とりあえず、

21世紀初頭の人類は、「鼓膜的/網膜的機械」を駆使する20世紀の経験を踏まえて、自らの五感を、あたかもそのような機械に似た器官として「主体化」させつつある

という風に見立てると、喜ぶ人がいるかもしれない。そもそも「主体」が思考と感覚から構成されている、という風に言って良いのか、哲学の素人にはよくわからないけれど、仮に「主体」がそういうものであるとして、その際の思考と感覚の関係、コンピュータに喩えれば「主体」というOSの実装などというものは、ことほどさように、時代や環境とともに変わっていく、ということかもしれない。(アフォーダンスという知覚モデルが有望視されるのは、この文脈での本命、という位置づけなのだろうなあと思う。)

ただし、そうだとすると、その種のサイバー進化論、「新しい人類」をめぐる予言の遂行的自己実現の動きのどこが胡散臭いか、というのも、なんとなくわかってくる。

「主体」というOSの実装が書き換え・組み替え可能である、というのは、別に新しくも何ともない話で、少しでも歴史を学べば、その種の例はいくらでも出てくる。サイバー進化論めいた議論がどこかしら幼稚に思えるのは、「脊髄」とか「鼓膜」とか「網膜」とか、という語彙が、比喩として古くさいからだと思う。

脳をめぐる考察が「主体」と呼ぶしかなさそうな思考の立ち上げを語ろうとするときには、あたかも脳と呼ばれる神経の集積の奥座敷にコントロール室があって、そこに「小さな人間」がいて判断を下す、というようなイメージと決別することになるようだ。(だって、そのような「小さな人間」など実在しないのだから。)

「脊髄」とか「鼓膜」とか「網膜」とかの語彙を使いたくなってしまう現象が、実は、そのような既知の器官とは別の何かなのだということをちゃんと言わないと、思考と感覚の関係をうまく説明できないのでしょうね。(「主体」とは何か、というのは、それだけで解決できるのかどうかよくわからない、さらに先の課題だろうけれど。)

「オリジナル/コピー」という関係は、音響再生産という技術への信頼から事後的に構成されるに過ぎないのではないか、とジョナサン・スターンは言うわけだが、もしかするとこの議論は、類似という表象作用には、その類似を成立させる技術への信頼が先行する、少なくとも近代人は、そのような文化の作法で生きている、という風に一般化できるかもしれない。

音響再生産の技術への信頼が形成されてはじめて、ある機械は「鼓膜」というオリジナルを模倣していることになり、遠隔視の技術への信頼が形成されてはじめて、ある機械は「網膜」に似て見える。そしてそのように知覚の主体化全般への信頼が確立しつつあるからこそ、ある種のコミュニケーションを「脊髄的」だと言えるようになる。

しかし、最初の観察に戻ってこの文章にオチをつけるとしたら、2016年現在、あいかわらずそれを「脊髄的」だと自嘲しているサイバーな人たちよりも、それを「脊髄」の働きとは違う何かなのだと認めて商売に利用している人たちのほうが、一歩先を行っているのかもしれません。「資本主義」と今も呼ばれ続けている信用取引のプロフェッショナルを侮ってはいけない、ということなのでしょう。

2016年のリアルな都市生活は、「動物としての人間」というモードによるアナロジー(おそらくそのような表象体系の最強にして最悪のシンボルが「ペニス」と「ヴァギナ」なのでしょう)が今も跋扈しているサイバー空間とは異なる表象体系を準備しつつあるのかもしれません。

(2015年の virtual agola における「政治の言葉」たちを、あまりにも「動物的」であった、と総括できるのかどうか、そこはまだはっきりしないので、ちょっと強引な結論ではありますが。)