相手に届かない言葉

前にも書いたが、朝日新聞の朝比奈隆追悼文について伊東信宏さんに感想を述べたら、「こういうことは、生きているうちに書かくのでなければいけないのだけれど」という趣旨のことを言われた(伊東さんはこういう口調で話す人ではないから、私の記憶のなかで言葉遣いが歪曲されているとは思いますが)。

批評・論評は相手に届くように書くのでなければ陰口になる。死者について何か言うのは、(内容が誉め言葉だとしても)究極の陰口だなあ、あるいは、その人の退任が決まってからことさらに何かを言うのでは手遅れだよなあ、と思って、以来、佐渡裕のことも、大友直人のことも、沼尻竜典のことも、大植英次のことも、西村朗のことも、井上道義のことも、それぞれの方が目立つポジションに在任している間に、当人からのリアクションがあればすべて甘んじて受けるつもりで感想を公表している。

(そして死者の供養という観念が一方にありますが、レクイエムや仏式葬式の法要はそこに参集した生者たちの宗教行事と位置づけられていますよね。死者を前にして「生きた言葉」を発するとしたら、そういう形式しかあり得ないと思う。)

いずみホール音楽ディレクター礒山雅氏については、既に生前から折に触れて書いておりますので、いま特に新しいコメントはありません。

子育て・滞納・批評 - 「願い」について

子育ては費用対効果の悪い贅沢なのか、そうではない、驚異的に費用対効果の良い投資かつ遊びなのだ、という話題が拡散しているのを見て、そこに、自らの意志でコントロールできない存在の行く末に対する「願い」の視点が欠けていることにぎょっとした。

私には子どもはいないが、父と母の子どもとして生まれてきたので、何かを「願われ」ながら育ったと認識している。父や母の「願い」を受け止めることもあるし、受け止めないこともあるし、受け止めようとして受け止められないこともあるし、彼らにとっては望外であったろうと思われる何かを(ひょっとすると)もたらすことがあったかもしれない(少しくらいは何かあっただろうとやや楽観している)。

「願い」の領域をばっさり切り捨てるのは、「他者を道具として扱う」(カント)の極北に見えるので、最も近い他者としての子どもについて、そういう議論が普通に流通するのか、とかなり驚いた。

(なお、「願い」の語は英語にしようとするとひとつの単語とうまく対応しない心の動きであるようで、からりと明るい善意の喜捨としての wish (I wish you a merry christmas!とか)なのかもしれないし、依頼を受けた側が事務的・機能的に諾否を表明できる request の場合もあるだろうし、hope と言うと未來へのヴィジョンが含意されていそうだし、desire と言うと、(抒情詩によくあるような)容易に手が届かぬものにそれでも手を伸ばす感じがする。とりあえずここでは、諸々ひっくるめた「願い」を丸ごと考えることにして先に進む。)

最近、日本音楽学会の会員への一斉配信メールには「会費納入のお願い」が毎回載っているが、先日、確定申告のために領収書を整理していたら、私は既に年度初めに所定の用紙で会費を振り込んでいることがわかった。振込用紙が届いたのですぐに払って、そのことをすっかり忘れていたので、学会からメールが来る度に、自分もまだ未払いでお願いされる側のひとりなのかと思い込んでいたが、違ったようだ。

誰が誰にいつどのような方法(・径路・メディア)で何を「願う」のか。

十把一絡げの「お願い」は、やっぱり、願いの作法として粗雑過ぎる気がします。

他方で、子育ての費用対効果という話題を眺めて連想するのは、ポケモンGOに最初から実装されている進化による「わざガチャ」や、あとで追加実装された「わざマシンスペシャル」だ。

ポケモンがどの「わざ」を覚えるか、スロットマシン風の確率が設定されているに過ぎないので、確率論的な費用対効果を話題にしてよさそうなシーンではあるけれど、それなりに手間をかけて捕獲・育成したこの個体の「わざ」がどうなるか、画面をタップするときは、つい、「お願い」のモードになってしまう(のは、たぶんわたくしだけではないと思う)。

確率的な操作なので、実際には、その1回がダメでも、しつこく何度もやれば、たいがい、欲しい「わざ」を得ることはできるし、それはわかっているわけですけどね。

よくわからないのだが、子育てを「遊び」(費用対効果を語りうるような)と形容するとき、子どもの行く末もまた、「わざガチャ」や「わざマシンスペシャル」のように、確率論的にどこかへ収束するとみなされているのだろうか?

だとしたら、それはクールでドライというより、あまりに楽天的な世界観ではなかろうかと思うのだが……。

それなりに気持ちを整えながらコンサートの開演を待つとき、あるいは、ロビーで顔見知りとその日のコンサートについて何かを語り合うとき、あるいは、演奏が終わってから感想を批評にまとめるとき、その都度、何らかの「願い」の構えがあるように思う。

開演前は、いい音楽でありますように、と願うし、ロビーで何かを語るときは、そこでの会話が私にとって、あるいは、話し相手にとって、公演をより楽しむことに役立てばよいのだが、と願いながら話題を選ぶし、批評の言葉は、届くかどうか定かではないけれど、読んだ人(編集者や演奏者・主催者を含む)に何かが届きますように、と願う。

蓮實重彦は観客席から選手に必死でサインを送る、と野球に喩えて語り、浅田彰は文化人類学風に「投げ瓶」、東浩紀はコミュニケーション論(脱コミュニケーション論?)風に「誤配」と言うが、いずれにせよ、「願い」のモードを取り去ったところで費用対効果や顧客満足度を語る風土は、ずいぶん野蛮なことだなあ、と思わざるを得ない。

費用対効果や顧客満足度を語るな、というのではないけれど。

ビジネスメールの定型には「よろしくお願いします」が乱発されるので、経済活動が「願い」と不可分であることは、むしろビジネスパーソンのほうがよくわかっているんじゃないかと思う。

学者が経済人めかして語る、というのが、タチが悪い。何かを「切断」しようとしているのだろうけれど、東アジアの言論空間には、近代化の過程で、実体ではない観念としての経済(まさしく「経済観念」)が亡霊のようにさまよっている感じがします。

事実と伝聞

官公庁(警察・消防など)の発表をもとに事件の概要を記述したり、主催者のプレスリリースをもとにイベントを紹介するのも、「伝聞のみによる報道」に分類されるだろう。

人間が把握するこの世界は、「伝聞」を取り去ったところに「事実」という直接体験が姿を現す、という風にはできていない。

新聞というメディアも、このような世界の構造の外部にあるわけではないし、でも、だからこそ「事実」という審級が立てられねばならないのだと思います。

かつては「事実」が実体として存立しており、情報社会の果てに「フェイク」がこれに取って代わった、と言ってみたり、世界の堕落・世も末、という通俗的な認識のもとで、報道は(かつてのように)「事実」に向き合え、とdisるのは、警世の言葉というより、現実逃避(もしくは「事実からの逃走」=事実逃避)だろうと思う。

世界の共同主観的存在構造 (岩波文庫)

世界の共同主観的存在構造 (岩波文庫)

共同主観、というような議論は、話の結論というより、とっかかりに過ぎなかったはずなのに。

お客様に親切な音楽家たち

片山杜秀の建国記念日エッセイを読んでから、山田和樹・樫本大進が日本センチュリーと共演した演奏会に行ったのだが、客席・ロビーをみわたすと、片山の嘆きとは違って、白髪のお客様ばかりではなかった。そういえば、先日のやたらとオーボエ吹きが聴きに来ていたいずみシンフォニエッタの演奏会も、客層は現在の日本の人口比率からかけはなれて高齢者が多いというわけではなく、それなりに老若男女が混じっていた。

(そもそも日本全体で高齢者の割合が高いのだから、一定数の高齢者がコンサートに来るのは普通のことで、クラシック音楽が高齢化しているかどうか、その傾向が加速しているかどうか、というのは、絶対数や客席における割合ではなく、日本全体の高齢者比率を基準に考えたほうがいいと思う。)

飯森範親と山田和樹は、音楽家としての資質や現在の活動のあり方など、ほとんど似ていないけれど、強いて言えば、2人ともお客様に対して親切な指揮者かもしれない。

飯森範親は長らく試行錯誤七転八倒して、ようやくお客様(や楽員)との間合いが安定してきた感じで、山田和樹は、そろそろ親切なだけではない何かが出てきていいんじゃないか、という感じだけれど、「絆・つながり」とか「女子力」とか「アウトリーチ」とか、というのが、現状では親切な人の周りに輪ができる状態に着地しつつあるかもしれない。

最終最適解というより、とりあえず今はそのあたりが落としどころになっている(この先いつまでこうなのかはわからない)ということだと思いますが、

無愛想な強面、にとっては冬の時代みたいですね。

しかしそうなると、むしろそういうときだからこそ、無愛想な強面路線を目指してみたくなりますが(笑)。

親切 kindness は、つっけんどんな無愛想と対比されがちだけれど、同時に、ファスト風土/下流志向的な無際限の奉仕・サービスではないところもポイントだと思う。親分子分/先輩後輩、黙ってオレについてこいの風土に kindness は育たない。大阪においてすら、都市文化の潮目が変わってきた。

適正規模

片山杜秀の建国記念日の寄稿は、「適正規模」というワードに軟着陸する。

クラシック界の未来 片山杜秀 :日本経済新聞

そういえば、先週末は「攻めの広報」で一世を風靡した音楽ホールの現代音楽演奏会に行って、安定した運営ぶりに感心したのだが、あれは、やみくもに攻める時期を経て、安心安全な適正規模が見いだされつつある、ということではないかと思う。

車輪の再発明 - 感嘆詞の哲学

自分が関心ないことは無価値と判断しがちだし自分が関心あることは価値があると判断しがちである。なので全く自分が関心ない物事に「うお!これ凄え!」と価値を認める人は結構大人物かもしれない(単にいい加減で調子が良いだけかもしれない。だが想外の大人物である可能性は心に留めておきたい)

「自分が関心あることは価値があると判断しがちである」というのは、関心 interest の語が同時に「利子・利潤・利益」を意味することを思い起こせば、18世紀の啓蒙哲学者たちが言う「必然の領域」のことであり(関心をもつ、というのは欲望・好奇心の充足を利益・利得であるという風に捉える経済的な態度です)、他方で、「全く自分が関心ない物事に「うお!これ凄え!」と価値を認める」というのは、美の定義そのもの、「美の崇高な無関心」(シラー)に他ならない。

明治以来の翻訳で「美」と訳すことになっている beau や schoen は、おお、とか、ああ、とかいった感嘆詞のような言葉だから、現代口語としては、「美」より「うお!これ凄え!」と訳すのがなるほど適切ではあるかもしれない。

何が起きているかというと、「美」の技術(いわば「すげえテク」)を「芸術」として括り出す制度(たとえばルイ14世の宮廷文化は、19世紀市民が l'art と定冠詞付き単数で総称することになる「様々なすげえテクたち beaux arts」を勅許で官僚制に組み入れるシステムだった)を批判してはじまった大衆文化論の極北として、「作者」概念中心の著作権思想に異議を唱えてきた人が、一周回って、genius という観念をそれと気付かずに再発明しようとしているようだ。

「近代」の入り口に、別の側から掘り進んでたどりついてしまったらしい。

(増田聡の美学的教養はヒュームの趣味論に米国分析哲学を接ぎ木しているのだから、ひとしきり暴れた末にここにたどりつくのは不思議ではない。)

美学の感性論としての側面は知覚・認知といった領域に活路を見いだしつつあるようだが、他方で「芸術」の理論はどうなるのか?

18世紀啓蒙思想が理性批判の果てに見いだし、19世紀教養市民が大きく育てた「美」の観念は、ニューメディアが様々な事件の連鎖と衝撃を増幅・活性化し続けた20世紀を経て、「うお!凄え!」といった感嘆詞の哲学に再編されつつあるのかもしれない。

多様性ベースの世界観

輪島祐介が演歌の言説史研究(創られた日本の心云々という長いタイトルの新書)の最後で多様性の擁護のようなことを書いたのを読んだときに、いきなりこの結論に飛ぶのは甘いのではないか、と思った。

音楽を同一性ベースで読み解く構えは、楽曲分析から社会史・文化史まで根強くあって、これへの対案を組み立てる作業はまだ十分にまとまっていないのが現状のように思う。

多様性をめぐる思考が脆弱なユートピアになりがちなのは、「つながり」等と言った社会科学的なモデルが乱立しているにもかかわらず多様性を擁護する哲学的な基礎がはっきりしないのと、実践的な技術として「ブリコラージュ」や「DIY」のようなとりあえずの提案が20世紀のオルタナティヴとして中途半端に受けてしまったのが原因ではないかと思う。

たぶん、もっとやりようがあるはずだ。

無限の多様性と幸福の総量

価値が4と6のものを、0と10と認識するのは非常に大雑把だけど、5と5だと認識するのも真実ではないよね。

回路が通電するかしないか(on = 1 / off = 0)の区別を基礎にして計算を進める機械を使用するのであれば、4 と 6 の関係を補足するときには、 4 と 6 の差が正か負かという判断から出発するのが効率がよさそうで、「価値が4と6のものを、0と10と認識する」とはおそらくそのようなアルゴリズムを指しているのだろう。

一方、近代が「人間」をどう取り扱ったかというと、「仮にすべて同値だと仮定するとどうなるか?」とやっていって、矛盾が生じたところに関してのみ、これは同値ではない、と背理法風にマーキングしたんだろうと思う。

現行の計算機械をフル活用するときには前者の径路で進む方が効率がいいだろうし、「人間」のつきあいでは後者のほうが幸福の総量が多くなりそうで、だから、上の引用は、効率を取るか幸福を取るか、みたいないつもの話に決着を付ける決定打というわけではなさそうに思う。

ただし、最近の「人間たち」は、上記の平等ベースのリベラリズムが破綻しつつあることを悟りつつあって、むしろ、「すべての個体は異なる、と覚悟せざるを得なさそうだから情報処理技術をフル活用すべし」という方向に既に舵を切っているのではなかろうか。

だから、計算機械を真似た語りで「人間」をdisるデジタル・キッズも、そろそろ、「平等」をターゲットにするより、「多様性」をターゲットにするほうがいいんじゃないか。

「価値が4と6のものを、5と5だと認識する」のスローガンで野党共闘を模索した政治家たちが選挙で大敗したのは、既に「去年」という大昔の話じゃないか。

なぜ事実を茶化してはいけないのか?

「事実」はデータから構成された仮説として得られる、というのは、ほぼ現在では多くの人の一致する見方だと思うけれど、これは、事実が「構成された仮説」=人工物・作り物であり、自然ではないからいいかげんに扱って良い、ということにはならない。

「事実」という特異な項目を立てることで、観念論と唯名論の果てしない争い(もしくは宗教的信念と世俗的批判)は辛うじて平衡を保つ。

「事実」を軽んじる者はイデオロギーの餌食になるか、さもなければ、言論の煉獄で燃え尽きることでしょう。

知性 science に「理系」と「文系」の区別があって、前者は事実の領域、後者は解釈の領域を扱う、という俗説がダメなのは、そこが見えていないからだろうと私は理解しています。高い塔を築くのが好きな人や果てしないストリートファイトが好きな人が競技に夢中になるのは当人の自由だけれど、それが高等教育の主たるミッションであるかのように言われると違和感がある。

(「表象文化」という卓抜な提案や情報社会への投企は、この構造の見通しをよくしたり、実装のアップデートであったりするかもしれないけれど、この構造自体を脱却しているとまでは言えないと思う。)

大学教員資格更新テスト(論述) 2

以下の文章における間投詞「わー」の効果を、学術雑誌のインパクト・ファクターと研究者コミュニティにおけるその誤用と関連づけて分析してください。

演歌は「日本の心」か 実は1970年前後に誕生 kyoto-np.co.jp/top/article/20… わー先日の音楽学会の演歌シンポが新聞に。ベニーくんへの言及がないのが今ひとつ(カラオケ実践の中で演歌のジャンルがコモンミュージックとして他ジャンルと融合してる指摘とか重要やと思う)。オレもはよ書かなあかん…