世界史のなかの西欧音楽

学生さんたちのレポートを採点しながら、現在のグローバルな情報ネットワークの海を検索ツールでサーフィンしながら「クラシック音楽」(東アジアのひとたちが20世紀後半に参入しようと夢見た「音楽の国」ですね)について語ることは極めてお手軽簡単なことだけれど、だからこそ、20世紀に形成されたこの観念を解体して、ヨーロッパの音楽の歴史を語り直す方法をきちんと教えなければいけないと思う。

「古代」が存在しないヨーロッパ亜大陸(大西洋に突きだした、いわば大きな半島ですよね)で中世に成立した音楽文化は、最初から東や南のより進んだ文明(たとえば楽譜という「紙の文化」はヨーロッパに外から伝わったと考えたほういいですよね)の肩の上に乗っているし、大航海時代=近代の躍進や植民地と連動した勤勉革命(産業革命)は上手に「外部」を利用していたし、20世紀にヨーロッパの音楽文化がグローバルな「クラシック音楽」に変換・昇格する過程では、ロシア東欧とアメリカ(そして東アジア)の役割を見逃すことができない。

もはや「世界の中心」という観念など持ち合わせていない現役の伝承者たちが肩の荷を降ろして音楽に取り組むためにも、21世紀の西洋音楽史が要ると思う。

バーンスタイン(「パン・アメリカ」の申し子は晩年に「パシフィック」の理念を打ち出した)と大栗裕(「大阪のバルトーク」といういかにもヨーロッパを仰ぎ見るかのようなレッテルを最後の10年で乗り越えた)の生誕100年、というのは、そういう構図をくっきり描くのに悪くないタイミングかもしれませんね。

大栗裕「管弦楽のための協奏曲」の謎

本日神戸で大栗裕「管弦楽のための協奏曲」が演奏されました。

資料からわかること、推測できることは解説に書かせていただきましたが、実際の音を聴くと、なぜ大栗裕はこの時期にこういう曲を書いたのか、改めて色々気になることが出てきました。

1960年代はいわゆる「現代音楽」の最盛期で国内外各地の音楽祭等で色々な作品が出て、日本のオーケストラも様々な機会に日本の作曲家の新作を取り上げて、オーケストラの書法が劇的に変化した時期だと思う。大栗裕のデビュー当時の「大阪俗謡による幻想曲」や「赤い陣羽織」「夫婦善哉」は恰好がついているし、1963年のヴァイオリン協奏曲はかなり頑張った「バルトーク様式」だけれど、「管弦楽のための協奏曲」は、やや苦しい。1970年のオーケストラ音楽としては色々足りない印象が否めないと思います。

で、ひょっとすると、無理矢理にでも一曲書かなければならない外的な事情があったのか、と心当たりを調べ直してみたのですが、どうやら、そういう形跡はなさそうです。

例えば、この作品はハープとチェレスタを使う贅沢な編成で、今回の大阪フィルの演奏会は、最後に「くるみ割り人形」組曲を置いてハープ、チェレスタを有効活用していましたが、朝比奈隆が1971年に「管弦楽のための協奏曲」を東欧で指揮したときのカップリングは、あまりそういうことを考えてはいなかったようです。

1971年1月8、9日ワイマールの演奏会は、大栗裕のオケコンのあとにグラズノフのヴァイオリン協奏曲が来て、後半はブラームスの交響曲第3番。(たぶん、かなり長い演奏会になったと思う。)

1月14、15日コトブスの演奏会は、大栗裕のあとがドヴォルザークのチェロ協奏曲とレスピーギ「ローマの泉」。(協奏曲のあとに休憩だとしたら前半が長すぎるし、協奏曲の前に休憩だと後半が長くなる。バランスの取りにくい3曲ですね。)

そして2月16、17日エアフルトは大栗裕のあとにハイドン「太鼓連打」で後半はブラームスの交響曲第3番。

3月1、2日ドルトムントの演奏会は、大栗裕のあとにラフマニノフのピアノ協奏曲第3番が来て、後半がシベリウスの交響曲第2番。(これも長い演奏会という印象ですが、なんとコンチェルトが今回の大阪フィルと同じです。しかもソリストはホルヘ・ボレット。)

こうして演奏会のプログラムを見直すと、どうやら、大栗裕の新作には、「大阪俗謡による幻想曲」などと同じように10〜15分程度の序曲、コンサート冒頭のオードブルが期待されていたように見えます。

ところが大栗裕は20分を越える全3楽章の作品を書いた。

なおかつ、朝比奈隆はブラームスやドヴォルザークと組み合わせて、ハープやチェレスタは大栗裕のみで曲目を組んでいます。ブラームスの3番がメインだとチューバも要らない。エアフルトの「ハイドン/大栗/ブラームス」というプログラムだと、大栗作品だけが突出して大がかりですね。

どうやら、作品のサイズ(演奏時間・編成両面の)等を指定したオーダーがあったわけではなく、「たぶんまたオーバーチュア・サイズの単品を書くのだろう」と思って朝比奈隆が待っていたら、予想外に大きな作品が出てきてしまった。大栗裕が(誰に頼まれたわけでもなく)大きいものを「書いてしまった」、ということだったように見えます。

事前に国内で演奏されていないのは、おそらく、ギリギリまで書き上がらなかったから国内での演奏をセッティングしようにもできなかった、というでしょうから、そうすると、期日が迫るなかで、大栗裕が「今書ける/書きたいのはこういう曲で、他のアイデアはない」という風に(珍しく)我を通したのでしょうか?

出来映えの如何にかかわらず、オケコンを1曲書かないとここ(=「大阪のバルトーク」みたいに言われてしまう環境)から先に進めない、という心境だったのかもしれませんね。

(大栗裕の1960年代は、自身がほとんどなじみのない京都の六斎念仏で1曲書く企画を朝日放送のプロデューサーから持ち込まれて「雲水讃」を書き、これがきっかけで「大阪のバルトーク」と呼ばれてしまう、という「巻き込まれ型」な状況ではじまって、そこからの流れは、「大阪万博」に忙殺された年の終わりの唐突で謎めいた大作であるところの「管弦楽のための協奏曲」で半ば強引に断ち切られる。そういうストーリーを想定することができるかもしれません。そして、そのあとの70年代の大栗裕の仕事は、歌劇「ポセイドン仮面祭」にしても、「大証100年」や「聖徳太子讃」のような交声曲にしても、大阪国際フェスティバルのためのバレエ「花のいのち」も、ほとんど知られていない曲ですが「飛翔」(朝比奈隆音楽生活40年のお祝い)、「樹海」(大量の邦楽器を使うコンチェルト・グロッソ)のような管弦楽曲も、大阪市音楽団のための「神話」も、異形の大作が妙に状況にはまる幸福な新展開と見ることができるのかもしれません。)

グイード・ダレッツォと上原六四郎:理論と実践の間に分け入る人類学は、「学問vs批評」という政治談義とは別物です

「平均律」と訳されているバッハの Wohltemperiert (Well tempered) は物理学(音響学)や機械工学(楽器の改良)を導入して考案された equal temperament とは別物で、調的和声の音楽は、バロックから19世紀前半までと、19世紀後半以後(改良楽器の使用に積極的だったワーグナーやパリ音楽院以後)で基本システム(インフラ)が変わったと見るほうがいい。

管弦楽史や鍵盤音楽史の授業を何年かやって、古楽、ピリオドアプローチの実践を音楽史の記述に組み込もうとすると、そういう見取り図にならざるを得ないことがわかってきた。

岡田暁生という20世紀末の学者は近著で「とは何か?」と相変わらず大上段に構えて「クラシック音楽」を語ろうとしているが(笑)、

クラシック音楽とは何か

クラシック音楽とは何か

西欧の芸術音楽が、新しい知見によって、「既に」内側から組み変わりつつある(組み変わった形で把握され、実践されつつある)のが、清々しい21世紀の風景だと思います。

ピリオド楽器から迫るオーケストラ読本 (ONTOMO MOOK)

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西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)

岡田暁生がまだまともだった頃に書いた「西洋音楽史」では、グレゴリオ聖歌がほとんど民族音楽めいた異文化に思える、と書き出されているが、確かに、グレゴリオ聖歌への知的なアプローチ(グイード・ダレッツォ「ミクロロゴス」のように、思弁的・ギリシャ的なムシカをユダヤ教から続く教会聖歌の歌唱指導に導入するプロジェクト)は、日本の伝統音楽の明治以後の知的(近代的)な解析(上原六四郎「俗樂旋律考」にはじまる日本音階論)と似ている。

ただし、上原六四郎は equal temperament 以後の人(というより、equal temperamentに代表される19世紀の物理的・工学的な「音響」の科学を最新の知として学び、日本に導入しようとした物理学の人なのだから、日本における equal temperament の旗振り役と言うべきか)なので、12半音階という西欧の音楽の「物差し scale」を周波数で一意に定義するのと同じやり方で、日本の音楽に周波数で一意に定義できる「物差し scale」を見いだそうとした。

一方、グイード・ダレッツォがムシカというギリシャ流の数比論で一意に定義しようとした(そのほうが有益だと主張した)のは、scale(音階=物差し)ではなく、聖歌を歌う現場実践の mode (旋法=様相)ですね。

  • ambitus: 音域。その歌を歌うときの声の抑揚はどの程度の広がり・範囲を動くのか。
  • tenor: 主音というより保持音という意味だと思いますが、その歌はどのような調子で声を保てばいいのか。その周囲で声を動かすことになる歌の「幹」、声の張り具合はどのようなものなのか。
  • finalis: 終止。見事に声を張って(=tenor)歌われた歌をどのように歌い収めるのか。

おそらく neuma と呼ばれる身ぶりと対応づけて(=カイロノミー)口頭伝承されていたのであろう教会の歌唱指導の基礎概念は、どれも歌い手目線の実践的なもので、だから、modus 様相と呼ばれるのでしょう。

中世音楽研究会が出した『ミクロロゴス』日本語全訳の詳細な解説によると、グイード・ダレッツォが推奨したとされる「ドレミ(ut re mi)」の聖歌は、単に音名の暗記に便利というのではなく、聖歌のmodus のエッセンスが凝縮されているらしい。

グイードは、無数の聖歌を適切に歌い分ける歌唱ゲームの「効率的攻略法」を考案・伝授した人なのだと思います。

そして教会の歌のこのような様相(modus)は、世俗領域の調的和声の開発・発展の影響を受けながら、教会音楽の第一作法として18、19世紀まで伝承され続けたのだから、西欧芸術音楽は、グイード・ダレッツォの流儀で「うた」を攻略する歌唱ゲームを1000年続けていたことになる。

私には、「クラシック音楽」という近世・近代の新興ゲームは、(ちょうどコンピュータ・ゲームが遊びの広大な海に浮かぶ可愛らしい島に過ぎないように)「うた」の modus の上にちょこんとのっかっているように思えます。

物理学と対応づけられた scale に全能感を覚えるのは、現行のコンピュータの進化の先にAIが万能化する特異点(シンギュラリティ)が到来する、と信じるのと同じくらい滑稽ですしね(笑)。

ミクロログス(音楽小論): 全訳と解説

ミクロログス(音楽小論): 全訳と解説

ただし、中世聖歌の「modus という歌唱ゲーム」は、グレゴリオ聖歌を「まるで異文化だ」と突き放した上で考古学的な注意深さで発掘・復元しようとした20世紀の古楽 Early Music 運動が見いだした「新しい知見」でもある。

おそらく、日本の伝統音楽論も、同じようなコースをたどって考古学的にトラディショナルなゲームのルールを再発見しないとしかたがないのだと思うし、例えば、徳丸吉彦の三味線音楽論は間違いなく有望なマイルストーンだったと思うのだけれど、

音楽とはなにか―理論と現場の間から

音楽とはなにか―理論と現場の間から

徳丸先生の人生のまとめみたいな著作が、日本音楽学会の機関誌で、職業的な音楽人類学の視点から小姑の小言のようにチマチマと批判されたのは、人類学のダイナミズムからほど遠いくだらない出来事でしたね。

グイード・ダレッツォを参照点にすると、徳丸先生の本の副題が「理論と現場の間から」となっているのは実に示唆的だし、音楽研究はそのような「間」を探索してこそ実りある営みになると私は信じております。

第一に、分野は問わず「大学人が批評家を兼ねる」というのは、かなり「日本的な現象」であるという印象を私はもっている。逆に言えば、それが日本のアカデミズムの特徴を表している。第二に、しかしそれもすでに「過去の話」でしかない。良し悪しの判断はさておき、まずは事実認識を確認・共有したい。

この発言がなされるに至った文脈が部外者には具体的に見えないのですが、とりあえず、ここに読まれる文字の連なりは、

(1) 話者が学者であることを前提にしている

にもかかわらず、

(2) この文章は、日本の20世紀後半から21世紀初頭の「ある種の批評文」(批評空間とかゲンロンとかに見られるような)の語彙を用いて書かれている。

この文字の連なりは学問的発言なのか批評なのか? このような「ダブルバイン」で読者を戸惑わせるのは、小林秀雄から柄谷/東系統の「批評」(なんちゃってポストモダン)の亜流ですから、この文章に「批評的」に反応するとしたら、

「あらまあ、やっぱり吉田先生も批評をおやりになりたいんですね。」

とイヤミを言う、というようなことになるでしょうか。

そして一方、「学者」風に反応するとしたら、

例えば、北米にもリチャード・タラスキン(ロシア国民音楽における民謡の扱いの分析、というようなこのエントリーのここまでの話題とリンクする研究等もある)のように学者が批評を書く(ショスタコーヴィチの「証言」に関してはかなり積極的に発言していたらしい)というようなケースがある(あった)わけですけれど、これはどう捉えたらいいのでしょうか、と質問してみましょうか。北米の音楽ジャーナリズムは「日本的」な特徴を備えている(備えていた)、というすさまじい議論になるのでしょうか?

あるテーマ/分野/運動が新しい展開・シーンを開拓しようとするときには、学問と批評をリンクさせてエンパワーしたほうが有効であり、そのテーマ/分野/運動を社会・文化で安定的に稼働しようとするときには、学問と批評等々の分業を目指すほうがいい。それだけのことではないでしょうか?

そして「音楽」や「遊び」といった案件が「理論と現場の間」に焦点を合わせざるを得ないのは、「学問と批評」なる運動・政治談義ではなく、研究対象・研究領域の特質からそうならざるを得ない別の話だと私は考えています。

(「ファッション」というのは、プレタポルテの服飾デザインの「モード」のことですよね? ルドロジーの向こうを張って、モドロジーという領域横断的な学問を立てたくなるほど、当節の世の中では、mode/modus の取り扱いが混乱しております。)

「クラシックの迷宮 浪速のバルトーク~作曲家・大栗裕の生誕100年」

片山杜秀のNHK-FMの番組でも大栗裕が取り上げられましたね。

NHK大阪でやった歌劇「夫婦善哉」の最後の場が放送されり、放送用音源や「大阪の秋」国際音楽祭での「擣衣」管弦楽版など、こういう機会でなければ電波に乗らなさそうな貴重な音源が放送されていました。

NHKFM 午後9時00分~ 午後10時00分
7月8日 クラシックの迷宮 ▽浪速のバルトーク~作曲家・大栗裕の生誕100年

楽曲
「歌劇“夫婦善哉”第8場から」
大栗裕:作曲
柳吉…松本薫平、蝶子…石橋栄実、辻占い…高津綾子、おちょぼ…端山梨奈、(管弦楽)大阪センチュリー交響楽団、(指揮)本名徹次
(10分06秒)
<※2010年8月5日NHK大阪ホールで収録>

「山(NHKバック音楽集から)」
大栗裕:作曲

(2分13秒)

「行進曲(NHKバック音楽集から)」
大栗裕:作曲

(4分09秒)

「擣衣」
大栗裕:作曲
(ソプラノ)樋本栄、(管弦楽)大阪フィルハーモニー交響楽団、(指揮)朝比奈隆
(18分12秒)
<NO LABEL OP-1211>

「大阪俗謡による幻想曲」
大栗裕:作曲
(演奏)大阪市音楽団、(指揮)朝比奈隆
(12分16秒)
<東芝EMI TOCF-6018>
※「歌劇“夫婦善哉”第8場から」は(原作)織田作之助、(脚色)中沢昭二

ただ、話の内容は片山杜秀がこれまでに書いてきたことからアップデートされていなくて、「大阪俗謡による幻想曲」の作曲を1955年と推定する樋口幸弘の間違いが今回も踏襲されたのは残念なことでした。

「擣衣」は大阪フィルが50周年記念で作成したCDに入っていて、大栗裕の作品のなかではほぼ唯一といってよさそうな「現代音楽祭」向きの作品ですが、成立経緯はやや問題含みです。

声とピアノと鼓、という編成で1959年に大阪の「現代音楽研究所」(上野晃や松下眞一がやっていた)の演奏会で初演され、このときのソプラノも樋本栄。そして「大阪の秋」の松本勝男の解説によると、朝比奈隆の薦めで管弦楽編曲することになったのだけれど、オーケストレーションは大阪フィル打楽器の八田耕治に任せたようです。

スコアにもそのことは書き添えてあり、スコアの筆跡は大栗裕のものではありません。

この作品は、1960年代の「現代音楽祭」向きに体裁を整えられた録音が残ってはいるけれど、1959年というかなり初期(「夫婦善哉」のわずか2年後)の作品だと見るべきかと思います。

また、大阪フィルのCDではひとつのトラックに収まめられていますが、「擣衣」は3曲に分かれています。(1959年初演版は全5曲で、管弦楽編曲されたのは第1、4、5曲。)

それにしても、放送を聴きながら思ったのですが、現在の楽譜出版社には、こうした「現代音楽」を新たに楽譜として出す体力はないでしょうね。初演当時の手書きの譜面を使い続けるしかない。これは大栗裕の場合だけではないでしょうが。

「演奏:大阪府音楽団 指揮:大栗裕」

樋口幸弘さんの連載エッセイを読んで、大栗裕が指揮した「小狂詩曲」のCDを買いそびれていたことを思い出して、早速、中古で入手。

樋口さんの文章には、昭和40年代(1960年代後半から1970年代半ばのことなので昭和で区切るのが便利)に国内レコード各社が競うように吹奏楽のレコードを出した話が出てくるが、東芝EMIが手持ちの音源を集めた「私の青春!吹奏楽部」という10枚組のアンソロジーに大栗裕が大阪府音楽団を指揮した演奏が入っている。

ただ、ジャケットの表記は「大栗裕指揮・大阪市[!]音楽団」と間違っていますね。

f:id:tsiraisi:20180709010407j:plain:h150

この音源の初出は樋口さんの文章にも登場する大阪府音楽団のLP。

CDをもっと早く入手していたら、FM大阪の番組で使うのにちょうどよかったのに、残念。

大栗裕生誕100年企画(吹奏楽)

7月に入って、吹奏楽関係でも大栗裕特集の動きがあったようです。

NHKFM 午前7時20分~ 午前8時10分
吹奏楽のひびき ▽作曲家 大栗裕 生誕100年
中橋愛生

楽曲

「吹奏楽のための神話~天の岩屋戸の物語による」
大栗 裕(おおぐり・ひろし):作曲
(指揮)木村 吉宏、(吹奏楽)大阪市音楽団
(16分20秒)
<東芝EMI TOCZ-9195>

「大阪俗謡による幻想曲<管弦楽版>」
大栗 裕(おおぐり・ひろし):作曲
(指揮)朝比奈 隆、(管弦楽)大阪フィルハーモニー交響楽団
(12分00秒)
<コジマ録音 LMCD-1524>

「吹奏楽のための小狂詩曲」
大栗 裕(おおぐり・ひろし):作曲
(指揮)谷口 眞、(吹奏楽)天理高等学校吹奏楽部
(6分17秒)
<Sony Records SRCR-2205>

「「吹奏楽のためのディベルティメント」から第2部“ブライトリー”」
大栗 裕(おおぐり・ひろし):作曲
(指揮)木村 吉宏、(吹奏楽)フィルハーモニック・ウインズ大阪(おおさかん)
(6分05秒)
<四つ葉印 YGMO-1011>

吹奏楽のひびき - NHK

没後30年の放送には木村吉宏さんがゲストで出演していましたが、今回、中橋さんが「吹奏楽のためのディヴェルティメント」についてどういう風にコメントされたのか、聴いておきたかったです。

「BPラジオ 吹奏楽の世界へようこそ」
毎週(土)23時 FMカオン(厚木・海老名)
http://www.fmkaon.com/
毎週(日)正午 調布FM
http://www.chofu-fm.com/
ご案内:富樫鉄火(昭和の香り漂う音楽ライター)

【第101回】生誕100年、なにわのバルトーク・大栗裕の世界

<FMカオン>7/7(土)23時、7/21(土)23時
<調布FM>7/8(日)正午、7/22(日)正午

今年は、作曲家・大栗裕(1918~82)の生誕100年です。《大阪俗謡による幻想曲》などで知られ、その土得得な土俗的響きは「なにわのバルトーク」とも呼ばれました。その魅力を、吹奏楽以外の響きも含めて、あらためてたどります。

【1】 吹奏楽のための小狂詩曲(約7分)
朝比奈隆指揮、大阪市音楽団
【2】 ヴァイオリン協奏曲~第3楽章(約7分)
下野竜也指揮、大阪フィルハーモニー管弦楽団、高木和弘(Vn)
【3】 大阪俗謡による幻想曲<管弦楽版>~部分(約5分)
下野竜也指揮、大阪フィルハーモニー管弦楽団
【4】 大阪のわらべうたによる狂詩曲(約13分)
木村吉宏指揮・編曲、大阪音楽大学吹奏楽団
【5】 仮面幻想(約12分)
鈴木孝佳指揮、タッドウインドシンフォニー

こちらは、BandPower(旧Band People系)の放送。

ウインド交友録 | 吹奏楽マガジン Band Power

そしてかつてBandPeopleで大栗裕特集を手がけた樋口幸弘さんの思い出話の数々。

連載を続けて読むと、レコード・コレクション/大物来日公演の追っかけ/私が知っているスターの素顔等々、樋口さん世代の吹奏楽ライターが1970年代から1990年代に、洋楽ポップス・レコード歌謡を楽しむように吹奏楽を楽しむ構えを日本で推進していたことがわかる。淀工の丸谷先生などの歩みとほぼ同じ路線だと思う。こうして「日本の吹奏楽」は英仏をお手本にした「国民音楽」(軍楽隊)と縁を切り、20世紀「新体制」的な音楽産業をローカライズしたJ-POPの90年代に対応する「J-Winds」になった。

(樋口さんが「同時代的」に随伴した1980年代以後の吹奏楽作曲家たちには英国やオランダの人たちもいるけれど、彼らは北米・日本をも市場にするグローバルな活動を展開している。こういう風な吹奏楽のグローバリズムと大栗裕や保科洋が樋口さんのなかでどのように整合しているのか、私にはまだちょっとよくわからないのですが。)

作曲家・大栗裕 〜あなたはどのくらい、知っていますか?〜

2018年は大栗裕のアニバーサリーイヤー。
今月7月で生誕100年となります。
「大阪俗謡による幻想曲」や「神話」をはじめ、数々の名曲を遺した大栗裕。
今回はそのプロフィールから楽曲まで、クイズ形式で迫っていきます。
易しい問題からマニアックな問題まで。 あなたはいくつ答えられますか?

【作曲家・大栗裕】2018年7月

2012年の「没後30年」と今年の「生誕100年」の間に起きた出来事としては、大栗裕の吹奏楽のほぼ全作品が出版されたことか大きな変化かと思いますが、そのティーダ出版は「大栗裕クイズ」(笑)。

FM OH! おしゃべり音楽マガジン くらこれ「大栗裕特集」

7月1日深夜25:15〜26:15(7月2日1:15〜2:15)

既に放送は終わっていますが、radiko.jp で1週間聴けるようです。

●使用音源リスト

  • 山田耕筰(大栗裕編曲)「この道」、弘田龍太郎(大栗裕編曲)「浜千鳥」 朝比奈隆(指揮)、大阪フィルハーモニー交響楽団、1979年9月13日、武庫川学園 『Beautiful Melodies of Japan』VDC-5533、ビクター音楽産業株式会社、1980年
  • 大栗裕「ヴァイオリン協奏曲」「大阪のわらべうたによる狂詩曲」 下野竜也(指揮)、大阪フィルハーモニー交響楽団、2000年8月、大阪フィルハーモニー会館 『日本作曲家選輯 大栗裕・ヴァイオリン協奏曲、大阪俗謡による幻想曲他』8.555321J、NAXOS、2002年
  • 大栗裕「大阪俗謡による幻想曲について」 FM大阪『大阪フィルハーモニー交響楽団創立30周年記念番組』1977年9月15日放送
  • 大栗裕「大阪俗謡による幻想曲」 朝比奈隆(指揮)、大阪フィルハーモニー交響楽団、1975年10月3日、チューリッヒ:トーンハレ 『大阪フィルハーモニー交響楽団創立50周年記念CD』LMCD-1324、コジマ・レコーディング、2007年
  • 「天神祭道中囃子」録音:1941年 『復刻 日本民謡大観 大阪編』現地録音CD、日本放送協会、 1993年
  • 大栗裕「閉会式・開会式用ファンファーレ」 朝比奈隆(指揮)、大阪フィルハーモニー交響楽団、1978年 『ビッグ・ヒット・マーチ クラシックでおどろう』TOCF-57072、東芝EMI株式会社、2005年(『小学校大運動会〜校旗の下に〜』TS-51012、東芝EMI株式会社、1978年)

●訂正

放送中に、「大阪俗謡による幻想曲」の最後でフルート奏者3人がすべてピッコロに持ち替えるかのようにしゃべっていますが、正確には、第1フルート以外の2人がピッコロに持ち替える「ピッコロ2本+フルート」がスコアの指定です。

●補足1:「管弦楽のための協奏曲」日本初演(予定)

大栗裕「管弦楽のための協奏曲」の日本初演が予定されている演奏会は、

三井住友銀行・みなと銀行 PRESENTS 大阪フィルハーモニー交響楽団神戸特別演奏会
2018年7月11日(水)午後7時開演 神戸国際会館
出演:秋山和慶(指揮)牛田智大(独奏)大阪フィルハーモニー交響楽団
曲目:

  • ラフマニノフ/ピアノ協奏曲 第3番
  • 大栗裕/管弦楽のための協奏曲(日本初演)
  • チャイコフスキー/バレエ組曲「くるみ割り人形」

[追記] 大阪フィルのサイトに、大栗裕「管弦楽のための協奏曲」の概要解説が掲載されました。

www.osaka-phil.com

「大阪俗謡による幻想曲」が武智鉄二、朝比奈隆の後押しで大栗裕が作曲家としてデビューした時期、初期の代表作だとしたら、「管弦楽のための協奏曲」は「大阪のバルトーク」と周囲から持ち上げられて、自身もバルトークを意識して新しいことに挑戦した1960年代、大栗裕中期の集大成ということになるかと思います。そしてこのあとに述べる一連のファンファーレは、「万博以後」の1970年代、大栗裕の後期の仕事です。

ただし、1970年代に「バルトーク様式」の帰結を見ようとするときには、70年代の管弦楽作品だけでなく、吹奏楽のための「神話」「バーレスク」「巫女の詠えるうた」「仮面幻想」、そしてマンドリン・オーケストラのためのシンフォニエッタ・シリーズや「傀儡師」「巫術師」等を参照すべきでしょうし、「大阪のわらべうたによる狂詩曲」は、ファンファーレで始まり、初期以来の民謡編曲が主体となり、なおかつ、調性から自由な「バルトーク様式」も入っているので、1970年代の最重要作品ということになりそうです。

今から思えば、ナクソスの下野竜也・大阪フィルのCDは、初期の「大阪俗謡による幻想曲」、中期のヴァイオリン協奏曲、後期の「神話」と「大阪のわらべうたによる狂詩曲」というラインナップで、大栗裕の仕事の歩みをよく押さえていますね。片山杜秀の目利きの仕事だと改めて感嘆します。

●補足2: 大栗裕のファンファーレ

大栗裕が1970年代に作曲したァンファーレ(楽曲冒頭がファンファーレになっているものを含む)は、現在私が把握しているかぎりでは以下の通り。

  • (a) 万博讃歌、1970年3月15日、日本万国博覧会開会式
  • (b) 「閉会式・開会式用ファンファーレ」、1978年春頃録音、『小学校大運動会〜校旗の下に〜』TS-51012、東芝EMI株式会社
  • (c) 交声曲「大阪証券市場100年」、1978年6月11日、証券100年記念演奏会
  • (d) 大阪国際フェスティバルのためのファンファーレ、1979年4月8日、第21回大阪国際フェスティバル開会式
  • (e) 「大阪のわらべうたによる狂詩曲」、1979年11月24日、大阪新音創立30周年記念演奏会

大阪国際フェスティバル「大阪4大オーケストラの饗宴」プログラムに寄稿した文章では(b)に言及できなかったので、今回のラジオ放送で(b)を聴いていただくことにしました。

(a)は大阪万博公式記録映画等で聴くことができますし、(c)の演奏会は実況録音がLP化されています。(e)はナクソスのCDに収録されていますので、大阪国際フェスティバルのファンファーレ以外は、録音で確かめることができます。聞き比べも一興かと。

(小中学校の運動会を想定した(b)は、日本万国博覧会や大阪証券取引所100年よりも壮大です(笑)。残念ながら楽譜は現存しません。)

公式長編記録映画 日本万国博 [DVD]

公式長編記録映画 日本万国博 [DVD]

大栗裕 : 大阪俗謡による幻想曲、ヴァイオリン協奏曲 他

大栗裕 : 大阪俗謡による幻想曲、ヴァイオリン協奏曲 他

[参考] 白石知雄「大阪に鳴り響くファンファーレ 大栗裕生誕100年に寄せて」より

(第56回大阪国際フェスティバル2018『大阪4大オーケストラの響演』プログラム、2018年4月21日、フェスティバルホール)

[……]

1970年の日本万国博覧会(大阪万博)で、関西の洋楽は新しい段階を迎えます。

万博期間中に、フェスティバルホールでは、世界の名だたる団体を招く演奏会シリーズ「万博クラシック」が開催されました。千里丘陵の博覧会場に各国のパビリオンがひしめくように、フェスティバルホールでベルリン・ドイツ・オペラのワーグナー、ローマ室内歌劇団のロッシーニ、ボリショイ・オペラのムソルグスキーと並んで、團伊玖磨の「夕鶴」と大栗裕の「地獄変」(1968年初演作の再演)が日本・大阪の代表として上演されました。

そしてここに登場するのが、世紀のイベントを祝うファンファーレです。

大栗裕は、大阪万博のために「万博讃歌」という合唱曲を作曲しています。開会式では、「万博讃歌」前奏の朗らかなファンファーレに乗せて、お祭り広場に万国旗が掲揚されました。この印象的なシーンは全国に中継されて、記録映画にも収められました。

大阪国際フェスティバルのためのファンファーレ

「万博讃歌」から少し間をおいて、大栗裕は、交声曲「大阪証券市場100年」(1978)と大阪新音創立30周年記念演奏会の委嘱作「大阪のわらべうたによる狂詩曲」(1979)の曲頭を再び輝かしいファンファーレで飾ります。大阪国際フェスティバルのためのファンファーレは、この2つの作品に挟まれた時期の作品です。

大阪国際フェスティバルのためのファンファーレは、いずれも3声のトランペットと3声のトロンボーンという編成で、同族楽器による純度の高い3和音の輝かしい響きが意図されています。そして3曲いずれも、ファとシを使わない日本風の五音音階(いわゆる「ヨナ抜き」音階)で書かれています。

日本音階をブラスのハーモニーで輝かせるのは常套手段ではありますが、“国民性”と“国際標準”の幸福な調和は、“万博以後”の大阪の自負、達成感と無縁ではないでしょう。

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(付記:大栗裕は1978〜1979年に立て続けに華やかなファンファーレを書いたあと、1980年夏、ちょうど、淀川工業高校が全日本吹奏楽コンクールではじめて「大阪俗謡による幻想曲」を自由曲で取り上げた年に体調を崩して入院、その後いったん退院しますが、再入院して1982年4月18日に亡くなりました。)

ミューミュージコロジーの前提:北米の知識人がヨーロッパにアイデンティファイした時代

ニュー・ミュージコロジーのアンソロジーにしばしばタラスキンの論文が収録されているのが、前から疑問だった。

タラスキンがロシア/ソ連の音楽に関する知見をベースにして展開する議論は確かに的確で、その前の世代を乗り越える視点を含むとは思うけれど、そんなことを言えば、1970年代80年代の音楽学者たちだって、冷徹な実証と現代音楽に刺激を受けたのであろう醒めた作品分析で、その前のフリードリヒ・ブルーメあたりの戦後第一世代を乗り越えたわけだから、学説が正常・順当にアップデートされただけのことではないか、ことさら「ニュー」ミュージコロジーというほどの画期ではないんじゃないか、と思うのです。

(そして1990年前後の日本からの留学生がメンデルスゾーン(星野)やリヒャルト・シュトラウス(岡田、広瀬)や華麗様式のピアノ・コンチェルト(小岩)の研究で成功できたのは、1970/80年代の研究者たちが処理・アップデートしきれなかった領域を機敏に見つけて食い込んだからだと思う。そういうのは、ごく普通の「学問というゲーム」のプレイだと思う。)

でも、タラスキンの京都賞講演や新聞のインタビュー記事と比較しながらチャールズ・ローゼン(北米の大学の音楽学コースでは主著が必読書になっているらしい)のざっくばらんなレクチャーを見ていて、思い当たったことがある。

ローゼンが7歳で最初に聞いたコンサートはトスカニーニとNBC交響楽団のベートーヴェンだったそうで、大学ではロジャー・セッションズなど1930年代以来の重鎮に学んだらしい。第一次大戦後に人とものが欧州から新大陸に大移動して、「世界システム」のヘゲモニーが合衆国に移転した時代を現在進行形で目の当たりにした世代なんですね。

ローゼンは、欧州の音楽・文化を「自分たちのもの」として語る。

北米に居ながらにしてトスカニーニやシェーンベルクやラフマニノフを聞くことができたこの世代には、欧州人より欧州的にものを考える「世界市民」の自意識があるんじゃないかと思うのです。

たぶん、こういう自意識が20世紀の「新体制」を支えたのだろうし、そのことへの抵抗・違和感が「ニュー・ミュージコロジー」というスローガンなのでしょう。

日本の「近代」の知識人は近代化と西洋化を混同しがちで、西洋化を近代化と混同する舶来信仰・ハイカラ趣味は日本の近代の恥部だ、みたいな自虐的日本批判(屈折した日本人論の変種)があるけれど、北米の知識人のなかにも近代化と西洋化の混同はあったし、第一次世界大戦後の北米が欧州に勝ったかのような世界情勢は、地球規模でその種の混同を助長したのではないか。

そして「ニュー・ミュージコロジー」というスローガンは、1960年代以後の北米知識人の「上の世代」への反発が、「上の世代」のロールモデルであったところの欧州への反発に転移してしまっているんじゃないか。

(だから、日本の文脈で、「戦後文化人」なるものへの反発とくっつけることができてしまうのではないか。)

でも、学説のアップデートと、その種のアンビヴァレントな「御家騒動」風の感情は、分けた方がいいと思うんですよね。

「ミュー・ミュージコロジー」なる運動は、「20世紀北米音楽文化論」(北米知識人たちの「御家騒動」)として語られるべき案件と、西欧芸術音楽論のアップデート(学説史)に分解したほうがいい。

大阪フィルと大栗裕

大栗裕の没後30年記念演奏会は2012年の命日(4月18日)に近い4月20日にザ・シンフォニーホールで大阪フィルと大栗裕記念会の共催で行われましたが、今年は生誕100年で、誕生日(朝比奈隆と同じ7月9日)に近い7月11日に大阪フィルが神戸の演奏会で「管弦楽のための協奏曲」を演奏してくれます。朝比奈隆が欧州で数度演奏しただけの作品なので今回が日本初演です。

没後30年演奏会は東北の地震の1年後、大植英次が3月までラスト・イヤー興行をやって大阪フィル音楽監督を退任した直後のタイミングでした。

今回は、既に首席指揮者を退任している井上道義が最後の力を振り絞るように大阪フィル創立70年記念興行としてバーンスタイン「ミサ」をやった翌年で、しかも、北摂で地震があった直後というタイミングになりました。

没後30年演奏会の指揮は手塚幸紀さんで、今回は秋山和慶さん。大阪フィル2代目音楽監督の大植英次は、ラスト・イヤー2011年の大阪クラシックで「大阪俗謡による幻想曲」を取り上げてくれましたし、そのあとを受けた首席指揮者の井上道義は、2015年の大阪音楽大学100周年記念吹奏楽演奏会で「俗謡」吹奏楽版を指揮しましたが、3代目音楽監督の尾高忠明も、いつか大栗裕にアプローチしてくれるでしょうか?

何度か書いていますが、大栗裕が亡くなった1982年頃から朝比奈隆はオペラと縁を切って、「シンフォニー一筋」になります。そしてこれは、大阪フィルが劇場のピットに入らなくなり、ベートーヴェン、ブラームス、ブルックナーのオーケストラになったのがこの頃からだ、ということでもあります。放送局の管弦楽団のメンバーを引き抜いたり、京都の映画撮影所の仕事をしたり、オペラをやったりしていた関西交響楽団時代の痕跡が消える転機ですね。

大栗裕は、大阪フィルにとって、そして朝比奈隆にとって、「関響時代とは何だったのか?」ということを考えるための参照点のような存在なのかもしれません。

もちろん、こういう風にアニヴァーサリーの「格好が付く」のは天然自然現象ではなく、そのように物事を進めようと意志を持って動く関係者がいるからです。ありがたいことです。

例えば、生誕100年にちなむ演奏会は他にもいくつかあって、そのパンフレット等をみながら、最近のコンサートのプログラムは写真を多用して見た目が華やかになったなあと思います。没後30年の前後にご遺族が「大栗文庫」に寄贈してくださって、それで、大栗裕の色々な写真をこうしたパンフレットで使うことができるようになりました。

音楽会(音楽界)の周辺でこうしたインフラをコツコツ整備することは大事ですね。

書物は、なるほど「産みの苦しみ」を伴うだろうが、所持・保管するのも大変です

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6月18日朝の居間の写真。左に見える大栗裕と関西の洋楽関連の資料ファイルの棚は無事でしたが、「近代日本をカルスタ・ポスコロ!」系統の本をまとめて収納している本棚が倒れた。家具調にガラスの引き戸(もちろん粉々に割れた)が付いていたので、復旧に手間取る。

大阪北部地震(という呼称でいいのでしょうか)は、大半が阪神淡路大震災以後に書かれたもので、東日本大震災を契機に刊行されたものを含む著作の山のなかから、尾原宏之『大正大震災』を発掘してガラスの破片を払う貴重な体験をさせていただける機会となりました。

大正大震災 ─ 忘却された断層

大正大震災 ─ 忘却された断層

音楽史関係の書庫にしている奥の部屋の復旧はこれから。

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写真に見えるスキャナーを含めて、パソコン等の機材が無事だったのは幸いでした。

震源が近い今回の地震のほうが、震源が遠い1995年より被害は軽い。

それにしても、「耐震設計」を謳う最近の建物では収納スペースが作り付けで、住居に本棚やCD/DVDの棚(仕事部屋のオペラDVDと大判楽譜の棚も倒れた……)を置く者を時代遅れの危険人物としてあぶりだすかのようになっているのは嫌な感じですね。

(茨木市は、80年代に川端康成記念館を作り、90年代に中央図書館を新設して、「文学の街」を演出しようとしたこともあったんですけどねえ。)

書物の著者が「産みの苦しみ」を共有する者同士の(どこかしらカトリック的な)共同体を欲する奇妙な時代は、同時に、書物を所有する者たちが生命の危険にさらされる時代にもなりつつある。

いずれにせよ、人は、著者と対話することを目的として、そのための手段として書物を読むわけではないのだから、著者が偏屈であったとしても、「ああそうですか、どうぞご勝手に」ということだと思いますが。

[追記]

本棚が無事だったので、床に散乱した本を所定の場所に戻すだけでよく、書庫の整理は半日で終わった。

その間、改めて手持ちの本を1冊ずつ手に取ることになったわけだが、ポピュラー音楽関係の本は、ここ10年くらいで一気に増えましたね。

ポピュラー音楽関係の本は、(現状ではまだ)体裁・装丁としても内容の密度としても学術書と一般書の中間と言うしかないものが多い。書棚の上のほうにまとめて置いていたせいで、これらの本は一番最後に落ちたようで、床の上の本の山の表面をポップスが覆っていた。しかも高いところから落ちたので広範囲に散らばっており、大切に保管したい本の上に、一応持って置いたほうがいいのだろうけれどもなんだかなあ、という本がばらまかれる結果になった。

もう一度高い棚に上げるのは大変なので、これからは、ポピュラー音楽関係の本は床の端っこに積み上げることにする。ゼロ年代を査定した結果の降格人事である。申し訳ないけれど、大切な本から塵や埃、落ち葉を払って、床を掃くような感覚でございました。

学問として成熟したら、ポピュラー音楽研究もこれからは事情が変わっていくのでしょうか。